
- シェア争い激化×株式市況急落──今、目が離せないSaaSのM&A市場
- 再構築原価&防御価値、M&Aを駆使してライバルと戦う買い手の脳内
- 備えあれば良縁あり? M&A巧者freeeに学ぶ4つの“備え”
- 激変するバックオフィス向けSaaSの版図、売り手も機敏な行動がカギに
コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻を契機にして悪化する株式市場。その影響はスタートアップ投資にも“冬の時代”をもたらす可能性がある。その際のイグジット戦略としてのM&Aをどう考えるべきか。M&Aマッチングプラットフォーム「M&Aクラウド」を運営するスタートアップ・M&Aクラウド代表取締役CEOである及川厚博氏がクラウド会計サービスを展開するfreeeのM&A事例をもとに解説する。
クラウド会計のfreeeが5月9日、税務領域に特化したクラウド「A-SaaS」を展開するMikatusのグループインを発表しました。ライバルのマネーフォワードとともに、熾烈なM&A戦争を繰り広げてきたfreee。昨今、多くのスタートアップがイグジットやファイナンス手段の見直しを余儀なくされる中、freeeのようなストロングバイヤーの動向には一層の注目が集まっています。
そこで今回は、Mikatus案件を含むfreeeのM&A戦略にフォーカス。特に、強力なライバルと戦う買い手ならではの思考回路や施策について見ていきたいと思います。
公開情報を参考にしつつ、一部想像も交えて書いていきます。あくまで個人の考察です。「freeeのようなM&A巧者になるには?」「freeeのような強い事業会社と組むには?」──そんな思いを持つ経営者の皆さまに、何かのヒントを提供できれば幸いです。
■案件概要
買い手:freee
売り手:Mikatus
発表日:2022/5/9
スキーム:現金対価簡易株式交換+第三者割当増資の引受
バリュエーション:25.2億円
シェア争い激化×株式市況急落──今、目が離せないSaaSのM&A市場
本題に入る前にもう一度、今、マクロで起きていることを整理してみたいと思います。
スタートアップの株価は下落傾向が続いています。冬の時代を迎え、調達に苦しむスタートアップの中でも、SaaS企業は特に大きな影響を受けています。この状況を作り出しているのは、以下の3つのファクトだと考えています。
①SaaS企業にはITバブル時にハイバリュエーションが付いた分、落差が大きい
東証マザーズ指数は、2020年7月のピーク時には1370円程度でしたが、2022年5月23日現在では637円と半値以下に落ちています。
またSaaS企業各社の株価の推移を見ても、ピーク時からの下落幅はさらに大きく、1/3~1/6程度まで下げるケースがあります。直近の株価が東証マザーズ指数を大きく上回っている企業であっても、一時の高騰が著しかった分、その後の急落が目立ちます。たとえば、直近2000円程度で推移しているあるSaaS企業は、ピーク時には7000円を超えていました。
②この環境下でIPOをしてもバリュエーションが付きづらいため、上場準備していた企業も続々延期

上の表は直近半年間で、東証から新規上場の承認が下りた後、上場手続きの延期を発表した企業の一覧です。感染症拡大の影響が大きかった2020年ほどではないものの、半年で8件はやはり延期ラッシュです。延期理由を見ると社内事由は1件もなく、いずれも市況の不透明さを懸念していることが分かります。
③「T2D3」が求められるSaaS企業には、初期に一定規模の調達が不可欠
SaaSはいかに早く、顧客基盤を形成できるかが成長のカギとなる領域。創業期は利益よりも売上が重要指標であり、「T2D3」(Triple×2、Double×3。売上3倍成長を2年、2倍成長を3年継続)が一つのセオリーとなっています。営業部隊の人件費やマーケティング費用に充てるため、VCからの調達を繰り返す流れが一般的です。
今、市況の悪化でリターンが見込みづらくなり、VCからの調達のハードルが上がる中、多くのSaaSスタートアップがその代替となるファイナンス手段を求めています。また、これまでSaaSスタートアップに出資してきたVCにとっても、出資先のIPOに代わるイグジット手段が必要となります。
SaaSスタートアップの成長を支えるパートナーとして、事業会社への期待がこれまでになく高まっている──その代表格に挙げられるのが、今回取り上げるfreeeです。
再構築原価&防御価値、M&Aを駆使してライバルと戦う買い手の脳内
ここからはfreeeのM&A戦略を紐解きつつ、他の買い手の参考になるポイントを探っていきます。また、そこから見えてくる売り手の賢い立ち回り方についても、最後にまとめたいと思います。
冒頭触れたように、freeeのM&A戦略を語るうえで欠かせないのが、クラウド会計領域の競争環境です。マネーフォワードのほか、弥生やOBCも重要なプレーヤーです。
直近のMikatus案件は入札となり、4社が参加。その結果、freeeが25.2億円で取得しました。Mikatusの直前期の売上7.4億円(ARRは開示なし)に対し、3倍強の評価です。SaaS領域では一時期、ARR換算で10倍程度が相場だったことを考えれば、やはり市況の影響が感じられるバリュエーションと言えます。
とはいえ本件、入札になったことからも分かるように、厳しい競争環境を前提にしたM&Aであることは間違いありません。freeeが開示したM&A目的「クラウド税務プロダクトの強化」「パートナーネットワークの拡大」からは、マネーフォワードへの対抗策としての意味合いも透けて見えます。25.2億円も、マネーフォワードの存在があってこそ付いた価格でしょう。
freeeのように競合との熾烈な競争下にある買い手は、M&Aを検討する際、どんな点を議論しているのか。 一般に重要な観点として、以下の2点が挙げられます。
①再構築原価:対象事業・組織を自社でゼロからつくった場合に必要な時間とコスト
②防御価値:対象事業・組織をライバルに買われた場合の機会損失を考慮した買収価値
まず「再構築原価」から、Mikatus案件に当てはめて見ていきます。Mikatusの持つ税務向けのプロダクト、そして会計事務所を対象とした顧客基盤は、freeeにとっては取り組みに一部遅れのあった領域でした。マネーフォワーが先行しているため、自社開発やチャネル開拓に時間をかけていられないうえ、会計事務所のユーザーは比較的年齢層が高く、営業やカスタマーサポートなどに求められるノウハウも、freeeの既存プロダクトの場合とはやや異なるのではないかと想像します。このように、ライバルに先行されている、カルチャーの違いから既存ノウハウを横展開しづらいといった要素が加わると、再構築原価はさらに高くなります。
「防御価値」に関しては、マネーフォワードよりもfreeeから見た価値がかなり大きかったと考えられます。freeeはマネーフォワードとARRで競り合っている一方、従業員数はマネーフォワードの約半数。営業体制はマネーフォワードの方が充実しています。freeeにとってMikatusの持つ会計事務所とのネットワークを取り込めれば、会計事務所の顧客である個人事業主にリーチしやすくなりますが、逆にMikatusがマネーフォワードと組めば、営業面で逆転していくことは一層難しくなります。

備えあれば良縁あり? M&A巧者freeeに学ぶ4つの“備え”
戦略面に加え、M&Aプロセスをスムーズに進めるための実務面に関しても、freeeは学ぶべき点の多い企業です。以下4つの軸に沿って見ていきます。
①賢い調達で軍資金を確保
②IRのガイドラインをクリア
③最適なスキーム選択ができるノウハウの蓄積
④M&Aでジョインした人材のキャリアパスづくり
賢い調達で軍資金を確保
ターゲット企業の状況や競合の動きを見ながら、タイミングを逃さずM&Aやアライアンスをオファーするためには、当然ながら軍資金の確保が不可欠。スピーディーに動ければ、それだけ自社の希望条件を出しやすくなります。また、M&Aアドバイザーから見ても、手元資金が潤沢な買い手には優先的に売り手を紹介したくなるため、ソーシングの効率も上がるはずです。
多くのSaaS企業は上場時に調達した後、大きな調達を実施しないまま市況の崩壊を迎えています。この点、freeeのアクションは見事の一言。2019年12月に上場後、2021年2月の株価の上昇局面をとらえ、3月に海外公募増資を行い、352億円を調達。対するマネーフォワードも、2017年9月に上場後、2018年12月には66億円、2020年1月には47億円、2021年8月には312億円、累計425億円を海外公募増資で調達しています。
強力なライバルが存在する、あるいは出現する可能性のある市場であれば、いつやってくるか分からないM&Aのチャンスにしっかり備えておくことが、いざという時のアドバンテージになります。freeeやマネーフォワードの大胆なアクションは、今の市況下ではなおさら、その価値が光って見えます。
M&Aの機動性を保つという観点においては、事前に一定の資金を持っておくことが非常に重要になります。財務の柔軟性を担保するという言い方もできると思います。成長の機会や手段を得られることがわかっているのに財務が制約となって本来できるはずの成長が妨げられる、という事態は避けるべきことです。こうした状況にならないよう将来の道筋を確保しておくことは、ファイナンスチームとして果たすべきことと考えています。
IRのガイドラインをクリア
IPO後に大きな調達をしたSaaS企業が稀な背景には、公募増資を行う際に日本証券業協会のガイドラインに沿って「具体的な資金使途」を記載しなければならず、制約が厳しいことも関わっているようです。2021年3月の海外公募増資の際、freeeは「潜在的なM&A」を主な資金使途としています。しかし、この表現ではガイドラインの規準を満たさないと判断されたと見られ、「海外募集による新株式発行及び株式の海外売出しに関するお知らせ」上には、「新サービス及び機能の強化、あるいは顧客獲得を企図した買収、出資、事業立ち上げ等の投資に係る資金」と記載されています。この事例は、経済産業省『スタートアップの成長に向けたファイナンスに関するガイダンス』(2022年4月)でも紹介されており、今後はガイドライン自体も見直しが進んでいくかもしれません。
海外で一般的に行われていることが日本ではなぜ難しいのか、という疑問を持ち、「慣習がない、事例がない」というだけの理由であきらめたくないという想いがありました。そこで、証券会社と議論を重ねて、最終的にはガイドラインに準じた開示文案を作成し、実行に移すことができました。
(中略)
法制度の改正を待つのではなく、既存の枠組みの中でもできることを追求し、「実務の事例から積み上げていく」ことも、我々のような企業側から起こせる一つの動きではないでしょうか。
最適なスキーム選択ができるノウハウの蓄積
Mikatus案件では、トータル25.2億円のうち4.5億円が、Mikatusによる第三者割当増資の引受に充てられている点も特徴です。今回、freeeの完全子会社になったことで、Mikatusの旧株主陣は、無事イグジットを果たしました。一方、Mikatus社にとっては、株主が交替したからといって自社にキャッシュが入ってくるわけではありません。増資を組み合わせることで、その点をカバーした本スキームには、SaaSの成長プロセスを知り抜いたfreeeらしい配慮を感じます。
旧株主のイグジットにおいて、現金対価株式交換を活用しているのもポイントです。株主総会の特別決議(3分の2の賛成が必要)で成立する株式交換は、旧株主中に少数株主が多いケースでも、スピーディーに完全子会社化を実現できる手法です。これに加えて、対価を現金にする(2006年施行の会社法により、株式交換の対価として現金も選択できるようになっています)ことで、旧株主は新たな完全親会社(本件ではfreee)の株主に残ることもなく、完全にイグジットできます。
今回、現金対価株式交換が使われた真意は分かりませんが、おそらくは上記のファクターも関わっているでしょう。また、有価証券報告書を見ると、freeeには手持ちの自己株式がなかったことが分かります。対価を株式ではなく現金にすることで、自己株取得や新株発行等が不要になるメリットもあったようです。
やや煩雑な話になりましたが、こうしたスキーム選択も、関係者間の合意形成を図るうえでは重要です。Mikatus案件の開示情報からは、freeeのM&A担当部門に蓄積された豊富な知見がうかがえます。
M&Aでジョインした人材のキャリアパスづくり
見出しに「freeeに学ぶ」と書きましたが、この点はマネーフォワードの取り組みが進んでいます。今、同社のCSOを務めている菅藤さんは、グループ会社であるクラビスの創業者で、2017年にM&Aでマネーフォワードにジョインした方。M&A先の経営陣として活躍されています。
こうした実績があると、新たにグループに迎えたい企業の経営陣と交渉する際にも、きっと刺さることでしょう。マネーフォワードはこのほか、ソーシングからPMI(Post Merger Integration:買収後の統合プロセス)までの体制構築にも注力しており、専門人材を核として、社内関係者が機動的に連携しているようです。
激変するバックオフィス向けSaaSの版図、売り手も機敏な行動がカギに
freeeやマネーフォワードが積極的なM&A活用を続けていけば、クラウド会計領域、ひいてはバックオフィス領域全体のSaaS業界において、版図がどんどん変化していくでしょう。両社とも、今回のMikatusの対象でもある税務領域のほか、人事労務、勤怠管理など隣接領域へと、着々とカバレッジを広げてきました。


freeeの直近の決算発表資料には、既存顧客へのアップセル/クロスセルの成約率は、新規顧客への成約率の2倍以上と書かれています。SaaSはクロスセルが成功しやすいことが証明されているからこそ、TAM(Total Addressable Market:獲得可能な最大市場規模)の拡大競争が起きていると言えます。今後、成熟産業へと進化していくにつれ、ますます早い者勝ちの争いになるとすれば、M&Aもそれだけ加速していくと予想されます。
freeeと組むか、マネーフォワードと組むか、はたまた独自路線を歩むのか──バックオフィス向けSaaSの各プレイヤーは、遅かれ早かれこうした選択を迫られるでしょう。もし自社と似たプロダクトを展開する企業に先に動かれてしまったら、局面は厳しくなります。逆に言うと、2強のどちらにとっても手薄な領域をカバーしている会社は、最も防御価値が高く、バリュエーションが付きやすくなります。
ただし、ビジネスや組織の完成度が低すぎる状態では、一方の再構築原価が小さくなってしまうのが難しいところです。一定の顧客基盤、生産性の高い組織など、それなりの時間をかけなければつくれないものが買い手にとっての魅力になるためです。
変数の多い複雑な判断ですが、買い手や競合の動きを予測し、先手を打っていくことが勝ち残りのカギになります。ぜひ他業界の動向なども参考にしながら、自社の強みを最高に活かせる戦略を練っていただければと思います。
ココがポイント!
①市況の悪化でリターンが見込みづらくなり、VCからの調達のハードルが上がる中、SaaSスタートアップは代替となるファイナンス手段を求めている。これまでSaaSスタートアップに出資してきたVCにとっても、出資先のIPOに代わるイグジット手段が必要となり、SaaSスタートアップの成長を支えるパートナーとして、事業会社への期待が高まっている。
②強力なライバルが存在する、あるいは出現する可能性のある市場であれば、M&Aのチャンスにしっかり備えておくことが、いざという時のアドバンテージになる。手元資金は潤沢に確保しておきたい。
③バックオフィス向けSaaSのように競争の激しい領域では、M&A検討にあたり、再構築原価と防御価値が考慮される。売り手は買い手の思考回路を想像しつつ、自社の競合の動きも予測して、機敏に立ち回ることが勝ち残りのカギになる。