演出家の小林香氏
  • 「これだから女性は」と言われないようにする責任感
  • 「演劇」という芸術を通じて、社会に働きかけたい
  • 危機感が独立のきっかけに
  • コロナ禍で改めて感じた「演劇の価値」
  • 世界にまで届くミュージカルをつくりたい

舞台演出家として存在感を増す、小林香氏。この夏、「女性の演出家が起用されるのは極めて稀」と言われる帝国劇場で、東宝ミュージカル史を辿るメモリアルコンサートの演出を担った。大学では政治を学び、プロデューサー出身という異例のキャリアだ。

海外有名作品を多数手がけながら、「オリジナルミュージカル」にこだわり、毎年1作以上は創作することを自らに課す。母となってなお、挑戦の歩みを止めない小林氏の視線の先、そして原点を聞いた。

「これだから女性は」と言われないようにする責任感

──8月、東宝ミュージカルの祭典「THE MUSICAL CONCERT at IMPERIAL THEATRE」の構成・演出を手掛けられました。

日本におけるミュージカルの歴史をつくってきた代表的な劇場の歩みを感じていただける時間になるよう、1963年日本初演の『マイ・フェア・レディ』から始まって現在に至るまでの楽曲を並べて構成しました。

今回、演出の機会をいただいて改めて感じたのは、日本のミュージカル発展のために心血を注いできた先人たちがたくさんいらっしゃって、その仕事が脈々と受け継がれ、今を生きる私たちへとバトンが渡されているのだということ。敬意と感謝をもって舞台に挑まねばならないと身が引き締まる思いがしました。

──帝国劇場で女性が演出するのは大変珍しいことだそうですね。

帝劇109年の歴史の中で、ミュージカルコンサートの演出を女性が担うのは初めてのことだと聞いています。世間一般からすると驚かれるかもしれませんが、事実として女性が活躍しづらい環境があったのではないかと思います。

私はたまたま東宝で初めての女性プロデューサーとなったり、シアタークリエのこけら落としも手掛けさせていただいたりする中で、“女性初の”と注目される機会も何度かありました。その度に、後に続く女性たちのことを思いながら「私が失敗してはいけない。これだから女性は、と言われてはいけない」という責任を感じてきました。

誰かにプレッシャーをかけられたわけではなく、勝手にそう思ってきただけなんですけどね。でも、私がきちんと作品を世に出し続けることで、演劇を目指す若い女性たちを勇気づけられたら、嬉しいです。

──そもそもなぜ演劇の世界を目指そうと思ったのか、キャリアの原点を聞かせてください。

私が育った環境からの影響がとても大きいと思います。父の家系は写真家や画家などファインアートを職業にしている親戚が多く、父も写真家でした。母方は丹後ちりめん職人で、織り機をガシャガシャと鳴らしながら生地を織る風景を間近で見ながら育ちました。アートとモノづくりに関わる家族の中で、自然と受け取ってきた刺激や芸術に対する関心があったのだと思います。

私が演劇を志すようになった原点として思い出すのは、小学1年生の頃、家族とテレビで観て、幼いながらも衝撃を受けたチャップリンの映画『街の灯』(1931年)です。歌あり、ダンスあり、パフォーマンスありの素晴らしいエンターテインメントでありながら、貧困や障害を乗り越えて共に支え合って生きていく人々の姿を描いていて。

非常にパーソナルな物語をパブリックな価値に昇華している素晴らしい作品だと今でも思うわけですが、6歳か7歳だった私もいたく感動しました。「こんな表現を使って、世の中をよくしようとしている大人がいるんだ」と。

「演劇」という芸術を通じて、社会に働きかけたい

──幼い頃から“社会に対する目線”を備えていたのですね。

休みの日に家族で出かけていたのは遊園地やプールよりも写真展。それも水俣病をテーマにしたユージン・スミスのような、子どもらしからぬ作品をぼんやりと眺めていた体験が影響しているのだと思います。10代半ばの頃に話題になった報道写真もよく覚えています。

紛争地で動けなくなった幼子をハゲワシが狙っているのを捉えた写真で(ケビン・カーターのピューリッツァー賞受賞作)。「カメラマンはすぐにこの子を助けるべきだった」という批判を含めた議論が、世界中で巻き起こっていく様子に、「1枚の写真が語る物語はとても饒舌で、これほどまでに人の心を揺り動かすのか」と感じました。

ですから、私が演劇を志したのも、舞台が好きだったとかミュージカルファンだったという理由が先行したのではなく、「社会に対して伝えるべきことを表現する手段」として選んだのがその理由です。

例えば、演劇の業界に限らず、現代のこの国において女性はやはり弱者側の立場です。男性が感じたことがない怒りや疑問を感じてきた女性は多いのではないかと思います。そういった問題を、政治家は政治を通じて解決しようとするし、経済を通じて何かを変えようとする人もいる。私は演劇という芸術を通じて、社会に働きかけていきたいのです。

Photo:Gettyimages/Lingkong C / EyeEm

──同志社大学で政治を専攻した経歴ともつながるお話ですね。

高校時代には管弦楽に没頭していて、そのまま芸術の大学に進む選択肢もありましたが、 「ちょっと芸術に偏りすぎていたな。もう少し広く世の中を知らないとダメだな」と、政治学科に進むことにしました。大学では多元主義について考えるゼミに所属。「誰かが得をすると、同時に他の誰かが搾取されている」という構造を指すものです。

学んだ結果、「やっぱり、この構造を変えられる可能性は芸術にあるんじゃないか」という思いはより強まりましたね。大学卒業後には上京して、演出家の謝珠栄さんに師事し、舞台演出家になるための勉強を始めました。

危機感が独立のきっかけに

──その後、26歳で東宝のプロデューサーになり、今につながるキャリアが開けていった。

はい。先生のもとを卒業してアルバイト生活を始めて1カ月ほど経った頃、私が演出家志望であることを知っていた方から「東宝に来ませんか」というお話をいただきました。

ただし、最初から演出助手の仕事が来たわけではなく、「プロデューサーの助手をお願いしたい」と。少し迷いはしましたが、「まだ何者でもない自分に大人の方々が期待をかけてくださるのなら、その流れに乗ってみよう」と決めました。流され過ぎてはいけないけれど、流れに逆らわないほうがいい時もあるんですよね。結局、7年間、朝から晩まで一生懸命プロデューサー業をやるという経験を経て、今があります。

──その経験はプラスになっていると思いますか。

なっていると思います。東宝という場所だからこそ出会えた役者やクリエイターもいっぱいいますし、在籍中には50年に一度くらいにしか巡ってこない新劇場の立ち上げにも携わることができました。私が卒論で書くほど憧れている菊田一夫先生もプロデューサー出身の演出家ですので、「いつか私も演出家への道が開けるかもしれない」と考えていました。

転身のタイミングは自分で決めました。シアタークリエを無事にオープンさせて2年ほど経った頃には、プロデューサーとしての仕事も安定し、周りからも評価を得られるようになっていたのですが、「このままだと、私は演出家に転身する勇気が持てなくなってしまう」と危機感を感じたんですよね。「貧乏に耐えられる年齢のうちに」と31歳で東宝を辞め、演出家として独立しました。

コロナ禍で改めて感じた「演劇の価値」

──以来、海外の有名ミュージカル作品、コンサート、ショーの演出など活躍を続けていますが、演出・脚本・作詞を一手に担う「オリジナルミュージカル」に特に力を入れてきたそうですね。

はい。『レ・ミゼラブル』や『ミス・サイゴン』といった、すでに海外で高く評価されてきた作品のレプリカを再現する演出もやりがいはあるでしょうし、興行的にも成功確率は高まります。でも、やっぱり、私たち自身の言葉で、私たちの目線で語る物語を、私はつくっていきたいと思うんですよね。自分たちの物語を、ゼロから生み出していきたい。もちろん、簡単な挑戦ではありませんが、たゆみなく年に1作はつくり続けています。

──ゼロから生み出すことへの苦労を、どうやって乗り越えているのでしょうか。

自分が何を書くかによって、すべての物事が決まる。オリジナル作品を生み出す時には、常にそんな孤独な重圧との闘いです。ただ、ずっと孤独であるわけではなく、さまざまな役割を持つクリエイターたちとの共同作業で作品は形を成していきます。そのプロセスの中に喜びはたくさんありますね。

終演後に、お客様のアンケート回答を1枚1枚読みながら、「ああ、少しでも力になれたんだ」と思えた時には、すべての苦労が報われます。私たちの仕事は、お客様の心に響いてやっと成り立つものなので。

──コロナ禍においては、「芸術の存在価値」が問われてきました。小林さんは、「演劇の価値」とは何だと考えますか。

この半年ほどの混乱の中、芸術は「不要不急」だと言われ続け、国が芸術をどのように捉えているかも知らしめられたことで、随分と悲しい気持ちにもなりました。でも、価値が理解されていないからこそ、私たちがもっと頑張らないといけないのだという気持ちも奮い立ちました。

私が考える「演劇の価値」とは、演じる者同士の心の行き交いを、すぐそばで観る人たちが感じられることです。演じる人が1人いて、観る人が1人いれば、演劇は成立する。これは人類が地球に誕生して以来、変わらないコミュニケーションの原型ですし、突き詰めて言えば「あなたがいるから、私がいる」という関係性。人間だけが味わえる関係性を、最もダイレクトに感じられる芸術。それが演劇ではないかと私は思います。

Photo:Gettyimages/Hill Street Studios

世界にまで届くミュージカルをつくりたい

──プライベートでは2017年秋に出産。2歳の男の子の母であるという側面は、演出業にどんな変化をもたらしましたか。

心を決めるのが上手になったと思います。お迎えに行くタイムリミットがあるので、「今日は絶対にこのシーンを終わらせる」と決めてから稽古場に出かけるようになりました。隙間時間も無駄なく使い、時間管理の力はかなりつきましたね。家に帰れば母業で忙しく、いい意味で気持ちの切り替えが強制されるので、「あのシーンが…」とクヨクヨすることも減りました。

あと、役者に対して寛容になったと思います(笑)。特に男性に対しては完全に息子とシンクロして、「こんなにガタイもいいし、顔もかっこいいのに、甘えんぼなところもあるんだな。でも、そうだよね、赤ちゃんの時にそうだったもんね?」と包み込むような気持ちになれます(笑)。それに、子育てに比べたら稽古場なんて、話せばわかる大人たちの集団なので、なんでも乗り越えられるようなタフな気持ちになれますね。

最近は、「怒らない、でも諦めない」をモットーに稽古場に立っています。若い頃は先頭に立つ自分と比べて周りの熱量がついてきていないと感じると、つい焦りから怒ってしまっていたのですが、「怒らない」と決めてからは私も周りもやりやすくなったと思います。ただし、「諦めない」とセットです。納得できるまでは諦めず、しつこく粘ります。

──最後に、これから挑戦してみたい目標は?

海を越え、世界にまで届けられるようなオリジナルミュージカルをつくりたいですね。「誰も見たことがないもの」をつくって、世の中に向けて表現していきたい。これからも芸術が社会に役割を果たせるように、表現への挑戦を続けていきたいと思います。