ハンドメイド作品のマーケットプレイス「Creema」
ハンドメイド作品のマーケットプレイス「Creema」 画像提供 : クリーマ
  • きっかけは才能のある人が評価されないことへの“怒り”
  • 本気で情熱を注げば、日本でナンバーワンを狙える
  • ゼロから「新しい文化」を作る挑戦も購入者集めに大苦戦
  • 相次ぐ競合の参入、激しい競争は「夢にまで出てきた」
  • 社員数名の会社が東京ビッグサイトを借りて仕掛けた大勝負
  • なぜCreemaは生き残れたのか
  • 上場を経て新たなフェーズへ、クリーマ経済圏の拡大と新規事業に挑む

ファッションアイテムからインテリア雑貨、アート作品にフードまで──。ハンドメイド作品を個人間で売買できるマーケットプレイス「Creema(クリーマ)」には、実に1000万点以上もの作品が集まり、熱狂的なコミュニティができあがっている。

2010年5月のサービス開始から10年。登録クリエイターの数は約20万人まで拡大し、アプリのダウンロード数は1000万件を超えた。日々さまざまな作品が取引され、月間で13億円以上の流通額を生み出す場へと成長した。

運営元のクリーマは2020年11月にマザーズ上場も果たし、今後さらにサービスに磨きをかけていく計画だ。

今でこそGMOペパボが展開する「minne(ミンネ)」と並び日本を代表するハンドメイドマーケットプレイスとしての地位を確立しつつあるが、ローンチから2年ほどの間は「作品を買う人のほとんどが身内」という厳しい時期が続いた。

そもそも当時はメルカリを始めとしたフリマアプリも存在せず、インターネットを介して個人間で簡単に取引ができる「CtoC」型のサービスが日本にはほとんどない時代。「ヤフオク!」のようなオークションサービスなどはあれど、オンライン上でクリエイターから直接作品を購入する文化は根付いていなかった。

そのような時期を乗り越え、一時は約30社にまで膨れ上がった“競合との激しい戦い”も経て、現在に至るクリーマ。同社がこれまでにどのような道を辿ってきたのか、代表取締役の丸林耕太郎氏に話を聞いた。

きっかけは才能のある人が評価されないことへの“怒り”

クリーマ代表取締役の丸林耕太郎氏
クリーマ代表取締役の丸林耕太郎氏 画像提供 : クリーマ

Creemaの源流は丸林氏が学生時代に抱いた、ある種の“怒り”にある。

当時丸林氏は慶應義塾大学に在学しながら、DJやリミックス制作などプロとして音楽活動を行っていた。その際、自分よりも才能のある同業者が正しく評価されず、音楽を辞めていく状況に違和感を覚えたという。

「『何でこんなにも才能がある人が……』と思うほど実力のある人が仕事に恵まれない反面、音楽的なセンスや努力が感じられなくても多くの仕事に恵まれる人もいる。そんな現状に怒りに似た違和感を覚えていました。それでは本気で音楽をやろうと思った人たちが浮かばれないだろう、と」(丸林氏)

偶然にも、当時丸林氏が親しくしていた女性も「絵」の領域で同じような悩みを抱えていた。一流の芸術大学に通って本気で絵を学んでおり、少なくとも丸林氏はその才能をリスペクトしていたが、周囲からは「画家の道一本で食べていけるほど人生は甘くない」と言われていたそうだ。

「音楽にしても、絵にしても、才能や努力と周囲からの評価が一致しづらい世界だと痛感しました。才能のある人が食べていけない世界は誰にとっても不幸な状態です。本気で何かに向き合う人たちが、その才能を解放できるようなフェアな仕組みを作れないか。そのような考えが原点にあります」(丸林氏)

考えてみればこの課題はミュージシャンや画家に限らず、デザイナーやクリエイターなど多くの人に共通しうる。対象を狭い範囲に限定するのではなく、あらゆるジャンルのクリエイターに光が当たるような仕組みを考えた結果、Creemaの原型に行き着いた。サービス名の語源は「クリエイターズニューマーケット」だ。

とはいえ、実際にCreemaを立ち上げたのはそれから約10年後、丸林氏が30歳を迎えた時のこと。決して学生時代から明確に起業を意識していたわけではなかった。

本気で情熱を注げば、日本でナンバーワンを狙える

丸林氏にとって1つの転機となったのが、ある大物経営者との出会いだ。丸林氏が大学3年生の時に主催した大型イベント。そのスポンサードをしてくれた経営者と自分の将来についての会話がきっかけで、その後の人生が変わったのだという。

「もともと周りの人に喜んでもらえるのがすごく好きで、それならばエンタメの道に進むのが良さそうだと考えて音楽を選びました。音楽には世の中の最大多数の人を幸せにできる可能性があるので『就職活動はせず音楽にかけたいと思っているんです』と(経営者に)お話ししたんです。それを聞いて『いい考え方だね』とおっしゃって頂いたのですが、その後に『でもたくさんの人をハッピーにすることがビジョンなのであれば、君だったら音楽家より経営者や政治家の方が向いているかもよ』と言われて。その言葉がずっと頭に残っていました」(丸林氏)

直接その理由を尋ねることはできなかったが、それから1カ月ほど考えを整理した結果、「経営者として大きな事業を、あるいは多くの事業を作ることができれば、1人の音楽家として活動するよりも遥かに多くの人をハッピーにできる可能性がある」という結論に至った。

本気で経営者を志すのであれば、まずはビジネスの世界で通用する力をつける必要がある。28歳で会社を作って、40歳までに上場を目指そう──。そんな考えから当時インターネット広告事業などを展開していたセプテーニに入社し、4年間の修行を積んだ。最終的に予定より1年ほど遅くはなったものの、2009年3月、丸林氏は29歳で自身の会社・赤丸ホールディングス(現:クリーマ)を創業する。

創業時のクリーマ。当初は赤丸ホールディングスという社名でスタートした
創業時のクリーマ。当初は赤丸ホールディングスという社名でスタートした。中央が丸林氏 画像提供 : クリーマ

最初は多世代型のコミュニティマンション事業を立ち上げたが、思うような成長が難しいと感じ方向転換を決めた。背水の覚悟で再度いくつものアイデアを検討した結果、頭に浮かんだのが強烈な原体験のあったCreemaだ。

特に市場調査などは行わずに事業開発に取り掛かったが、当時から事業に対する自信と将来的な構想はあったと言う。

「感覚的に1000万人くらいの人たちが集まる場所は作れるだろうと感じていました。自分が一番情熱を注げる領域であり、仮に困難に陥ったとしても最後までやり切れる自信がある。同時に本気でやり続けさえすれば、十分にナンバーワンを狙えるとも考えていたんです。会社としては将来的に愛のある事業を複数展開したいという思いもあり、(Creemaのように)たくさんの人が集まるようなビジネスは1つ目の事業としてもピッタリで、完璧だと思いました」(丸林氏)

当時のメンバーは丸林氏を含めて3人。全員がビジネスサイドの出身だったため、初期のサービス開発は内製ではなく外部の企業に開発を依頼し、構想から半年で何とかローンチに漕ぎ着けた。そこからCreemaの長い戦いが始まることとなる。

ローンチ当初のCreema
ローンチ当初のCreema 画像提供 : クリーマ

ゼロから「新しい文化」を作る挑戦も購入者集めに大苦戦

やることはたくさんあったが、まずはユーザーを集めてこないことには何も始まらない。自らギャラリーやイベント会場などへと足を運び、クリエイターにサービスの説明をしながら出品者を獲得していった。

初期からCreemaに登録しているクリエイターの多くは、そのように地道な人海戦術を続けた結果、思いに共感してくれた人たちだ。ただ、それだけで上手くいくほど甘くはない。クリエイターは1000名規模まで集めることができたものの(ローンチ時点で200〜300名規模)、肝心の購入者を集めるのにとにかく苦戦した。

「『作品を買う人が社員や身内、クリエイターの関係者ばかり』という状態が2年以上に渡って続きました。サービスを運営する中で感じたのが、当時の日本にはクリエイターの作品を直接買うという文化がそもそもなかったこと。CtoCも根付いていない当時の状況では、Creemaの構想は人々の常識からは飛躍していたのです。この状況を変えるには、まずはクリエイターから作品を買う行為が楽しいものであることを多くの人に理解してもらう必要があると考えました」(丸林氏)

そのためにはネットサービスを展開するだけではハードルが高く、リアルな場を設けることが重要ではないか。そのような考えがあったからこそ、クリーマでは初期からオフラインの取り組みに力を入れてきた。

最初のオフラインイベントはドイツで開催した
最初のオフラインイベントはドイツで開催した 画像提供 : クリーマ

サービスを開始してからわずか半年後には、初めてのリアルイベントを“ドイツ”で開催。その後も頻繁にクリエイターの作品を直接購入できる機会を設けた。

とはいえ、大きな収益も見込めない状況の中で投資をし続けるためには、どこかから資金を集めてこなければならない。クリーマでも多くのスタートアップと同様にベンチャーキャピタル(VC)からの資金調達に動いたが、特に最初の調達は難航し、約1年がかりの長期戦となった。

前例が少ないCtoC型のサービスである上に、まだ数字も積み上がっていない状況。国内の主要なVCはだいたいひと通り回ってみたが「やりたいことはわかるが、そんなにニッチなビジネスでは難しいのではないか」と断られることが続いた。

細かい数字や具体的な戦略を熱心に聞いてくれる投資家に限って、気づいたら競合になるようなプロダクトを自分たちで立ち上げている。そんな苦い経験もしたが、最終的には丸林氏の人間性に投資する、いわば“男気投資”で、数社から約7000万円の資金を集めることに成功する。

相次ぐ競合の参入、激しい競争は「夢にまで出てきた」

クリエイターから作品を直接購入する“文化づくり”に加えて、丸林氏達には乗り越えなければならない大きな壁がもう1つあった。競合他社の存在だ。

当時日本のCtoCハンドメイドマーケットプレイスは黎明期と言える状態だったが、海外では「Etsy(エッツィ)」を筆頭に近しいプロダクトが急成長を遂げていた。そこに可能性を感じたのか、2011年以降多くの企業がこの領域に参入し始めたのだ。

丸林氏の認識では最大で「30社以上」にまで事業者が拡大。それもクリーマのようなスタートアップだけでなく、前述のminneのほか、サイバーエージェントと博報堂グループ、NTTドコモなど実績のある大企業が次々と事業を立ち上げ、わずか数年で一気にレッドオーシャンと化した。

「まだ明確に事業が伸びている状況ではない中で、想定外の数の競合が現れました。このビジネスの構造上、どんなに多くても生き残って成長を続けられる会社は2〜3社に絞られるはず。競争は避けては通れないものであり、当時はそれが恐怖すぎて気が狂いそうになる日々でした」(丸林氏)

競争が過熱してからは、それが夢にまで出てくるようになった。「軍隊に追われて逃げ回るような夢」を週に数回見ていた時期もあったそうだ。

そんな毎日だったが、不思議と撤退は一切考えかったという。「振り返れば、数字だけ見るとなぜ撤退しなかったのかというほどキツイ時期も続いた」ものの、それがきっかけで組織が崩壊するようなこともなかった。

「いい意味でバカなことが重要だと思うんです。前職で新規事業に関わっていたので、KPIの考え方や撤退の基準などは自分の中にインプットされていました。でも、それを超えた情熱や可能性をCreemaには感じていて。本来なら撤退を検討してもおかしくない数字だけど、そもそもそういう発想にすらなりませんでした」(丸林氏)

社員数名の会社が東京ビッグサイトを借りて仕掛けた大勝負

日々プレッシャーを感じながらも試行錯誤を続けて数年、時間はかかったがようやくサービスの芽が出始めるようになる。

丸林氏が1つのターニングポイントにあげるのが、2013年7月に東京ビッグサイトで実施したクリエイターの祭典「HandMade In Japan Fes'」。創業4年、社員数もわずか6人の会社が東京ビッグサイトを借り、社運をかけて仕掛けた大勝負だ。

丸林氏たちにとってもこの規模のイベントは初めて。当日まで何とも言えない緊張感が続いたが、いざ蓋を開けてみると有料にも関わらず約3万人が参加し、想像以上に熱量の高い場になった。

「参加者の人たちの様子を見て、これだけ楽しそうにみんなが買い物をしてくれるのだから、このサービスが伸びないはずがない。少なくとも自分たちがやってきたことは間違いではなかった、そう思えた瞬間でした」(丸林氏)

2013年に実施した「HandMade In Japan Fes'」の様子。創業4年、社員数6名のスタートアップが東京ビッグサイトを借りて実施した
現在はクリーマの名物イベントとなった「HandMade In Japan Fes'」の様子(写真は2017年のもの) 画像提供 : クリーマ

前後してマーケットプレイスの数字も伸び始めた。だからこそHandMade In Japan Fes'の現場を見て「これは花が開くのではないか」と手応えを感じ始めていた。

大盛況に終わったHandMade In Japan Fes'はその後クリーマの名物イベントになり、2020年末までに9回開催された。また2014年3月にはルミネ新宿2に常設のエディトリアルショップを開設(現在は2店舗)。同年12月からは西日本最大級のハンドメイドイベント「Creema Craft Party」も始める(大阪、台北で計7回開催)など、オフラインの取り組みを一層強化させていくことになる。

同じく2014年6月には、会社にとって大きな意思決定も行った。社名をそれまでの赤丸ホールディングスから現在のクリーマへと変更したのだ。これは丸林氏の中で、改めてこの事業1本で上場に向かっていくという決意を示すためのアクションでもあった。

クリーマはリアルイベントに加えて常設の店舗を運営するなど、オフラインの取り組みにも力を入れている
クリーマはリアルイベントに加えて常設の店舗を運営するなど、オフラインの取り組みにも力を入れている 画像提供 : クリーマ

なぜCreemaは生き残れたのか

着々と新しい施策も取り入れながら事業に向き合い続けている内に、1社また1社と競合が撤退を決め、気付けばプレーヤーの数も減っていった。2017年頃にはCreemaとminneが業界の二大巨頭として認知されるようになり、「ビジネスの前提条件も変わった」と丸林氏は話す。

さまざまなプレーヤーが乱立する中で、なぜCreemaは生き残れたのか。

もちろん機能拡充やプロダクトの改善などは常に実施し続け、マーケティング活動やオフラインイベントにも力を入れていたが、大局的に見ると結局は「執念の差ではないか」というのが丸林氏の考えだ。

「この戦略が当たった、他にはないクリティカルな機能があったというわけではありませんでした。ただ他社も含めて冷静に見た時に、各機能開発や施策において自分たちのスピードと量が飛び抜けていたと思っています。根本にはこの事業にかける覚悟や執念、ある種の競争に対する恐怖感などがあり、事業を継続するためには『徹底的にやらないといけない』という思いがチーム全体を通して強かった。その差分が積み重なり、量やスピードに現れ、最終的な差に繋がったというのが僕の考えです」(丸林氏)

徹底的にやるという観点では、どこまで事業へ投資をするかという発想もある。アプローチの違いは多少あれど、生き残ったCreemaやminneは当時「気が狂ったようにマーケティング活動をしていた」という。

絶対にこの市場のリーディングカンパニーになって、クリエイターに役立てるようなサービスにする──。Creema1本にかけて勝負をしてきたクリーマは、その意地の強さが尋常ではなかった。

現在Creemaには約20万人のクリエイターが登録。様々なジャンルの商品が出品され、熱狂的なコミュニティが育ち始めている
現在Creemaには約20万人のクリエイターが登録。様々なジャンルの商品が出品され、熱狂的なコミュニティが育ち始めている 画像提供 : クリーマ

上場を経て新たなフェーズへ、クリーマ経済圏の拡大と新規事業に挑む

冒頭でも触れた通り、サービスをスタートしてからちょうど10年が経った2020年。クリーマは東証マザーズへの上場を果たした。当初から使ってくれていたクリエイターからは「まさかここまでの規模のサービスになるとは思っていなかった」と驚かれることの方が多いという。

ここ数年で事業基盤も徐々に整いつつある。2020年2月期(第11期)の通期売上高は15億1766万円で営業利益が4868万円。今期は第2四半期までですでに売上高が10億円に達しているほか(10億3751万円)、営業利益が2億4859万円と収益化が進んだ。

大幅な広告宣伝費をかけずともしっかりと売上を伸ばせる体制ができ始め、本格的な収益化フェーズへと突入した形だ。

クリーマの事業構造。マーケットプレイスの売買手数料を軸に、収益源も多角化し始めている
クリーマの事業構造。マーケットプレイスの売買手数料を軸に、収益源も多角化し始めている 画像提供 : クリーマ
昨年6月には新たにクリエイター向けのクラウドファンディングサービスをローンチ。今後もクリエイターをサポートする仕組みを拡充していく計画
昨年6月には新たにクリエイター向けのクラウドファンディングサービスをローンチ。今後もクリエイターをサポートする仕組みを拡充していく計画。画像は公式サイトより

とはいえ「Creemaに関してもまだまだやりたいこと、やれることは多い」という。昨年には新たな試みとしてクリエイター向けのクラウドファンディングサービス「CreemaSPRINGS」を始めた。今後もこれに続くような形でクリエイターのサポートに繋がる仕組みを拡充しつつ、クリーマ経済圏の拡大を目指していく計画だ。

一方で当初から丸林氏が「愛ある事業をいろいろな領域で展開したい」と思い描いていたように、Creemaとは全く異なる領域の新規事業にもチャレンジしていくつもりだ。

「自分たちの中では、Creemaはその第1弾事業という位置付けです。Creemaの運営を通じて培ったものも活かしながら、非連続な成長を生み出す事業を新たに生み出し、複合体を作っていけるかがビジョンの実現に向けた勝負であり、自分の使命でもあると考えています」(丸林氏)