
- 「87世代」のコミュニケーション感覚が本丸
- 出会いは、パラリンピアンの寄付集め
- 「READYFOR」立ち上げ前の米国留学での経験
- なぜ「応援してくれる人がいる」と確信できたのか
クラウドファンディングサービス「READYFOR(レディフォー)」を展開するREADYFOR 代表取締役CEOの米良はるか氏との対談。米良氏がクラウドファンディングサービスを立ち上げた背景から、企業がミレニアル世代にコミュニケーションをとる際のポイントまでを語ります。(編集注:本記事は2019年8月1日にAgenda noteで掲載された記事の転載です。登場人物の肩書きや紹介するサービスの情報は当時の内容となります)。
「87世代」のコミュニケーション感覚が本丸
徳力 米良さんは、1987年生まれですよね。私の中で 「87(ハチナナ)世代」の経営者がミレニアル世代の代表として話を聞いてみたい本丸なんです(笑)。この世代は、米良さん以外にも、SHOWROOMの前田裕二さん、筑波大学准教授の落合陽一さんなど、新しい感覚のサービスやコミュニケーションで、注目を集めている方が多い印象です。
私の勝手な仮説なのですが、「87世代」は大学生のときに日本におけるソーシャルメディアの走りである「mixi(ミクシィ)」が存在していたので、インターネット上のつながりを自然な感覚で大切にしている人が多い気がします。
私は1972年生まれで、会社に入ってからインターネットが普及した世代のため、インターネットは仕事のツールという意識が強い世代なのですが、少し後に生まれたいわゆる「76(ナナロク)世代」は、大学時代にインターネットを経験していることもあって、インターネットがライフスタイルに入り込んでいましたし、多くの人がサービスをつくる側に回っています。
この世代には、ミクシィの笠原健治さん(75年生まれ)、グリーの田中良和さん(77年生まれ)、2ちゃんねるの開設者である西村博之さん(76年生まれ)、メルカリの山田進太郎さん(77年生まれ)などがいますし、78年生まれには、家入一真さんもいるネットの黄金世代でした。
彼らと同じように「87世代」にも、それまでの世代と違う感覚の変化があるのではないかと思っているんです。この世代の感覚は、この連載でこれまで話を聞いてきたバンクの光本勇介さん(1980年生まれ)、アルの古川健介さん(1981年生まれ)とも微妙に違う気がしています。
米良 たしかに80年代初めに生まれた世代とは、少し違う気がします。
徳力 前回、けんすうさんへのインタビューで面白かったのが、大企業はコミュニティをつくろうとしても、企業とお客さまを別の存在だと位置付けてしまうのに対して、真のインターネット企業は、お客さまを仲間として捉えているという話でした。
ただし、私のような昭和世代は、どうしてもお客さまは、おもてなしをする対象という意識が強く、本当の意味で腹落ちできていません。その点、クラウドファンディングは、サービスそのものをユーザーと一緒につくっていくものですよね。

米良 そうですね。お客さまは、仲間だという感覚は分かります。
徳力 私は、そうした感覚こそ、現代のマーケティング担当者が顧客とのコミュニケーションで持つべきだと考えています。今日は、米良さんの体験を深掘りすることで、昭和世代にとってのヒントを得たいと思っています。
出会いは、パラリンピアンの寄付集め
徳力 私が初めて米良さんとお会いしたのは、米良さんが大学生のときでした。たしか、2010年バンクーバーパラリンピックに出場するスキーチームへの寄付を集めるためのアドバイスを聞きに来てくれたんですよね。当時は、なぜ寄付を集めていたのでしょうか。
米良 きっかけは東京大学の松尾(豊)先生との出会いです。私が大学3年生のときに所属していたゼミの先生が松尾先生との共同研究を始めたんです。
当時、松尾先生は「SPYSEE(スパイシー)」という人物の検索サイトを運営していました。これはインターネット上にあるメディア記事などから自動で人物名を抽出して、ウィキペディアのように、その人物の情報を載せたページをつくるサービスです。
そうした活動から、将来はインターネットを通じて、本当はすごい実績を持っているのに組織の中で埋もれていた人にもスポットが当たるようになり、その人を応援できる世界になるのではないかと考えました。パラリンピックスキーチームへの支援は、その中のひとつです。選手とたまたまお会いしたときに、何度も優勝しているのに資金が集まっていないという事実を知って、それはおかしいと思ったんです。

徳力 当時、ものすごく強烈な熱量で説得された記憶があります(笑)。
米良 すいません(笑)。ただ、どちらかと言うと、私としては社会課題の解決に興味があったというよりも、テクノロジーが起こす変化で、今まで実現できなかったことをできるようにしたい、という思いが強かったんです。
「READYFOR」立ち上げ前の米国留学での経験
徳力 米良さんが大学生だったときは、まだクラウドファンディングという言葉さえ存在していなかったと思います。当初から、起業しようと考えていたのですか。
米良 いえ最初は、あくまでひとつのプロジェクトに参加しているという意識でした。とはいえ、自分でプロジェクトを組み立てて、さまざまな人の協力を仰ぎながら、全身全霊を尽くすという経験が初めてで、自分に向いているなと感じていました。
徳力 いつのタイミングで、これは自分が取り組むべきビジネスだと確信するようになったのですか。
米良 スタンフォード大学に留学したときですね。当時、米国でクラウドファンディングという事業が生まれ、注目を集めていたんです。
徳力 自分がやっていたことに名前があった、と。
米良 まだ定義や名前もなくて、マイクロファイナンスやソーシャルファンディングとも呼ばれていました。ただ、少なくとも米国で同じ概念が出てきたので、マーケットとして成立するかもしれないと感じていました。
徳力 留学中も関心を持ち続けていたのですね。
米良 はい、米国においてインターネット上で支援を募集したら数日で1000万円が集まるという、これまでは考えられなかった状況を目の当たりにして、自分もやるべきだと思ったんです。それがパラリンピックの寄付集めをした翌年の2010年で、大学院1年生のときでした。それから準備を進めて2011年3月に「READYFOR」をリリースしました。

徳力 法人化したのは2014年でしたよね。3年間はプロジェクトのままだったのですか。
米良 そうです。松尾先生が経営していた会社の一事業のサービスオーナーとして動いていました。当時は、会社の経営に興味はなかったのですが、「READYFOR」をこれからも成長させていきたいと思いましたし、徐々に経営に関して勉強する中で、いま独立しないと自分で買い取れなくなると思い、起業しました。
なぜ「応援してくれる人がいる」と確信できたのか
徳力 今でこそクラウドファンディングは広く知られていますが、当時は寄付の文化がない日本では難しいと言われていましたし、テック系スタートアップ起業がガジェット開発のための資金調達という観点で注目されていた印象です。その中で「READYFOR」は、最初からチャレンジする人を応援するという文脈を強く打ち出していました。
米良 はい、私がイメージしていた世界は、応援される人と応援する人に分かれるのではなく、自分が挑戦したいときは誰かが応援してくれて、誰かが挑戦したいときは自分が応援するといった、誰もが立場を入れ替えられるネットワークでした。
徳力 なぜそう思われたのでしょうか。そこに、ミレニアル世代を理解するためのヒントがあるように思います。中古品の買い取り事業「CASH(キャッシュ)」で有名なバンクの光本勇介さんは、“性善説”という言葉を使っていましたが、これまでの会社のサービスは、どちらかと言えば、サービスを悪用する人がいる“性悪説”を前提につくられていました。
「READYFOR」も性善説に近い感覚を感じます。米良さんは、なぜチャレンジする人を応援したい人が数多く存在すると信じられたのですか。

米良 難しい質問ですね。ただ、インターネットがなかった時代は、物理的に離れてしまった人とつながり続けるのは困難でしたよね。でも現在は、例えばFacebookで一度つながれれば、いつでも連絡がとれますし、ずっとつながり続けられます。
複数のコミュニティに囲まれて生きていける環境なので、何かを始めようとしたら誰かが協力してくれるだろう、という感覚が根底にあったのかもしれません。
徳力 なるほど、それは大事なポイントですね。ソーシャルメディアが普及したからこそ、人を信じられるようになったわけですね。米良さん自身も、誰かに手を差し伸べられたという経験があったのでしょうか。
米良 そうだと思います。何か新しいチャレンジをしたいと誰かに相談したら、「それならば、この人を紹介してあげるよ」とメッセンジャーなどで簡単につなげてもらうことができます。
ソーシャルメディアを通じて一度で出会った人と、緩くつながり続けていくことで、自分が何かにチャレンジしたときに誰かが味方をしてくれるはずだ、という感覚がどんどん強くなっていると感じています。