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  • 「ケイデンス経営」が組織のカオス状態を整える
  • PayPal、Yammerが取り入れてきたケイデンス経営の基本
  • 四半期に1度のPRイベントが、事業部間の歯車を噛み合わせる
  • 週次の「OKRキックオフ」と「ウィンセッション」で、ケイデンスと個人・チーム目標が連動
  • ケイデンス経営の効果を最大化できるのは「PMFの達成後」

スタートアップの成長に、組織づくりは欠かせない。多くのスタートアップは経営者ひとりか、その仲間数人という、ミニマムな体制で産声を上げる。

その後、事業が軌道に乗ると、会社の規模は拡大していく。メンバーが30人を超えるくらいの段階で、経営者の目が行き届かなくなる「30人の壁」のように、経営と個人のミッションの連動性が弱まり、成長の壁に直面する時期は必ずやってくる。

会社の成長段階でこのような状況に陥る背景として、経営者とメンバーの間に「事業部」という組織のレイヤーが挟まることで、経営者の掲げるビジョンやメッセージが届きにくくなること、個人連携で成果を上げる組織体系から、チーム間連携で成果を上げる組織体系に変化していることなどが挙げられる。

これらの課題と向き合う手法として、米国の社内SNS提供企業で2012年にマイクロソフトが買収したYammerや、オンライン決済大手のPayPalは「ケイデンス経営」という概念を導入してきた。

本稿では、経営管理クラウド「Loglass」を開発・提供するスタートアップ、ログラス代表取締役CEOの布川友也氏が、SaaSベンチャーに特化した投資・支援を行う「ALL STAR SAAS FUND」マネージングパートナーの前田ヒロ氏、イネーブルメントパートナーの神前達哉氏らの協力を得てケイデンス経営の基本を解説。ログラスでのケイデンス経営実践例や、メリット、開始時の注意点なども紹介する。

「ケイデンス経営」が組織のカオス状態を整える

四半期ごとに目標設定をする多くの企業にとって難しいのが、セールス、ファイナンス、プロダクト、マーケティングの4事業部による連携だ。分業体制になりやすく、事業部ごとの連携が課題になることの多いSaaS型スタートアップも例外ではない。

事業部間で連携が取れていないとき、言い換えると、各事業部の目標が他事業部の目標にどのような影響を与えるのかがクリアになっていないときには、それぞれが他事業部を意識することなく、各々の数値目標だけを追いかけて進んでいくことになる。

目標達成の過程で、各事業部が各自のステークホルダーのニーズを満たそうとすると、例えばある事業部は投資家を優先し、別の事業部は新規顧客を優先し、その結果、既存顧客のケアが足りなくなってしまう──といった事態になることもあり得る。一組織として統一感のないこのような動きは、組織にカオスな状態をもたらすことになりかねない。

組織の規模が少しずつ大きくなり、組織全体で見たときに、各事業部が整合性の取れない動きをするようになる前に取り入れたい手法が「ケイデンス経営」だ。

ケイデンス(cadence)には「声の調子」や「歩調」「回転数」の意味がある。事業部間の連携を強くすることを「歯車」にたとえ、その歯車を高速で回転させていく経営の仕組み作りがケイデンス経営である。

米国のベンチャーキャピタルCraft Ventures創業者のデイヴィッド・O・サックス氏が、自身がCOOを務めたPayPal、創業者でCEOを務めたYammerで取り入れてきた経営哲学としても知られている。

PayPal、Yammerが取り入れてきたケイデンス経営の基本

ケイデンス経営では、セールス、ファイナンス、プロダクト、マーケティングの4事業部を「セールス/ファイナンス」「プロダクト/マーケティング」の2つに分け、それぞれが同じカレンダーで動くようにする。

プロダクトの開発の遅れや、その発表タイミングの不確実性は、それにひもづくマーケティング施策のスケジュールや目標設定にも影響を及ぼす。また、セールスもファイナンスの事業の成長目標から逆算した売上を達成する必要があり、ここの足並みを揃えて連携することで、全員が何に取り組むべきなのかを理解することができる。

ケイデンス経営の基本

ケイデンス経営のキモは、プロダクトとマーケティングの動きを連動させ、四半期ごとなど、定期的に新製品・新機能を市場に発表するPRイベントを行うことにある。任天堂の「Nintendo Direct」や、Appleの新製品発表イベントなどもこれにあたる。ケイデンスという言葉には「リズム」や「韻律」の意味もあり、イベントの実施は各事業部が足並みを揃えて連携するリズムを作る。

イベントの中身や日時が決まり、招待客へ案内を済ませたら、もう後戻りはできない。選択肢はひとつで、各事業部がイベントを成功させるため、連携して動いていくのみだ。イベントが存在することによって、プロダクトチームはイベントで披露するプロダクトや新機能のリリースを優先的に行うようになる。期限までに開発できなければ、マーケティングチームはマーケ施策を打つことができず、セールスチームも営業することができない。

イベント開催によって、各事業部の「いつまでに、なぜ、それをするのか」が明確になり、全員がそれを理解する。組織全体が整合性の取れた動きをするようになり、皆が同じ方向に向かう土台ができるのだ。

四半期に1度のPRイベントが、事業部間の歯車を噛み合わせる

スタートアップが四半期に1度、定期的に開催するイベントは、既存・新規顧客双方にとって有意義な内容に設計できる。半年に1回では、スタートアップ企業のスピード感としては遅く、短期的な目標設定に落とし込みづらい。月次の場合、粒度の細かい修正やアップデートが優先されてしまうため、プロダクトの「骨」となる部分の開発優先度が下がってしまう。適切なスピードで開発を進め、それを適切に目標設定に落とし込んでいくためには、四半期に1度のPRイベントが最適である。

既存顧客に対しては、イベントで彼らの事例を取り上げ、プロダクト導入により顧客企業がどう進化していったのかをオーディエンスに伝え、彼らが積み重ねてきたことをアピールできる。

新規顧客に対しては、プロダクトや新機能を知らせるのはもちろん、貴重な他社事例を伝えることが可能だ。顧客同士がつながり、成功した施策や取り組みをシェアし合う、コミュニティのような場を提供することもできる。

このようなイベントを成功させるには、マーケティング/セールス/カスタマーサクセスの連携が必要不可欠といえる。特にSaaS企業は、サブスクリプション型のビジネスモデルを展開していることから、顧客に寄り添ったプロダクト、カスタマーサクセスの構築は重要課題だ。

だからこそ、既存顧客と接点を持ち続け、彼らの声を聞き、属性を深く理解する機会は必須である。契約締結=ゴールではなく、更新し続けてもらうための取り組みは欠かせない。

イベントは顧客と良好な関係性を育てるきっかけにもなる。新機能をローンチしたり、改善したりする度に、顧客のビジネスを進化させることができれば、互いにエンゲージメントを高めることにもつながる。

週次の「OKRキックオフ」と「ウィンセッション」で、ケイデンスと個人・チーム目標が連動

ここで、ケイデンス経営を実践するログラスの事例を紹介する。ログラスではケイデンス経営を取り入れてから、3つの素晴らしい変化があった。

1つ目はリソースの適切な使い方を考えられるようになったことである。人や時間、資金などが限られた中で戦うSaaSスタートアップは、一刻も早く成長するために効率的なリソース配分が欠かせない。ケイデンス経営の導入によって3カ月後に開催が確定しているイベントを成功させるため、リソースの割り当てを各チームで正確に行えるようになった。

2つ目はメンバーのモチベーションを維持できるようになったこと。3カ月ごとに開催されるイベントが区切りとなり、ひとつのサイクルができた。

ログラスでは毎週月曜に「OKRキックオフ」、毎週金曜に「ウィンセッション」と呼ぶ定例のミーティングを行っている。「OKR」はObjectives and Key Results(目標と主要な成果)の略で、目標管理の手法。OKRキックオフではその週に行うことをチームのメンバーがそれぞれ宣言し、ウィンセッションではその週にやったことや成果(Win)を発表する。

ケイデンス経営の本質は、長期的かつ抽象度の高い経営の大きな目標を、四半期ごとの各チームのリズムに落とし込むことにある。週次の「OKRキックオフ」と「ウィンセッション」の2つの機会を組み合わせることで、他チームがどのような動きをしているのかを把握し、お互いのリソース配分を融通し合うような動きをすることも考えられる。リソースが少ないスタートアップだからこそ、会社全体の歯車と個人・チームの歯車を噛み合わせることが重要となる。これによって、全社として掲げた四半期の目標に向かって、今週自分は何を達成すべきか、チームは何を達成すべきかが明らかになる。結果、事業はもちろん、採用活動も順調に進んでいる。

3つ目は(経営サイドにとって)経営がしやすくなったことだ。ケイデンス経営の仕組みを取り入れることで、チームが自然と高回転するようになり、COOがいなくても組織が自律的に成長していく状態ができている。

ケイデンス経営の効果を最大化できるのは「PMFの達成後」

ログラスではケイデンス経営の効果が出ているが、これは創業間もないスタートアップにも勧められるかというと少し違う。自社の開発工数を正確に見積もることができ、四半期ごとに新機能をリリースできるくらいの安定的な開発体制が整った時点で始めるのがおすすめだ。

開発体制を構築する前にケイデンス経営を始めると、新機能がローンチされないまま、3カ月経ってしまった……といった事態を招きかねないからだ。スクラム開発を問題なく回せるようになったタイミングで、ケイデンス経営を取り入れるのがいいだろう。

自社の開発力を正しく把握できていなければ、四半期でローンチできるものを正確に導き出すのは困難だ。少なくとも10〜12週間ほど時間をかければ、自分たちの処理能力を掴むことができるだろう。

PMF達成後(シリーズA以降)に大きな資金調達を行い、人的リソースが増えたタイミングでケイデンス経営を本格始動できるよう、PMF前の期間はケイデンス経営の“予行演習”にあてるのもよい。

ケイデンス経営を取り入れれば、各事業部が自然と連携し合って、個人・チーム・会社の目標を同時に達成しようとする仕組みを作ることができる。

四半期ごとのイベントがリズムとなり、顧客からのフィードバックループも速くなり、良いプロダクト・機能へと進化するスピードも上がることが期待できる。会社にとっても顧客にとってもメリットのある経営手法をぜひ試してみてほしい。