探究学舎 代表の宝槻泰伸氏
探究学舎 代表の宝槻泰伸氏
  • 京大を卒業してすぐに起業するも、どん底を味わう
  • 父親の“独自すぎる”教育論
  • テレビにスポーツ、ファッションの話題ばかり──高校に幻滅して中退
  • バーで過ごした青春時代
  • 父が開いた塾「プラトン学園」から京大へ
  • 「本を書いてスターになってやろう!」
  • 職業訓練校で開いた、大人も変える熱血講義
  • 「テストと受験対策の塾」からスタートした探究学舎
  • 三鷹に探究型学習の金字塔を打ち立てよう
  • 1万5000円で授業をオンライン配信
  • コロナ禍にチャネル登録者が5倍に
  • 24歳の時のアイデアを実現する

京大を卒業してすぐに起業するも、どん底を味わう

「俺の授業を全国に届けたい。そのためには、インターネットしかない!」

宝槻泰伸は、鼻息荒く駆け回っていた。今の話ではなく、2006年のことだ。その1年前、京都大学を卒業した宝槻は上京し、ワイズポケットという会社を立ち上げ、東大、早稲田、慶応などの大学生が高校で出前授業をする事業を計画。手当たり次第に電話をかけて営業をしていたら、一校だけ、八王子にある高校が興味を示し、その年の秋以降、宝槻も教壇に立っていた。

学生時代から父親が経営する一風変わった塾の講師として、個々の興味関心を掘り下げる“探究型”の授業をしていた宝槻は、八王子の高校生たちの心もわしづかみにした。学校側の評判も良く、2年目(2006年)には予算が倍増し、2000万円の売り上げを得ていた。

授業の日、教壇に立つと、高校生たちが目をキラキラと輝かせていて、授業を楽しみにしてくれているのがわかった。

「おーし、今日も授業やるぞー!」

当時26歳の宝槻は大きなやりがいを感じていたが、同時にもどかしさも感じていた。この探究型の授業での生徒の変化は八王子の高校の小さな教室で起きていることだから、誰にも注目されない。起業した時は「30歳で時価総額100億円」を目指していたのに、まるでその予感がしない。このこぢんまりとしたビジネスから一発逆転して「教育界の寵児」になるためにどうすればいいかを考えた時に思い浮かんだのが、インターネットだった。

宝槻は、オンライン授業を実現するために奔走する。持ち前の馬力と熱意だけで1億円を超える資金調達に成功し、人を集め、オンライン授業のシステム開発に挑んだ。しかし、2年をかけても思い描いたものにはほど遠く、資金も尽きて開発を断念。その間、スタッフの大学生に任せきりになっていた八王子の高校からは「やる気なし」と判断されて、契約も打ち切られた。

結婚したばかりなのに、仕事がない。投資家たちに頭を下げる日々。まさに人生最大のどん底で、それでも目をギラギラさせて、腹の底で再起を誓っていたのが、2009年ごろのことだ。

父親の“独自すぎる”教育論

それからしばしの時が流れて、2021年。受験勉強もテストもなく、子どもの好奇心を刺激する塾「探究学舎」の代表兼講師を務める宝槻は、月額1万円のオンライン授業を展開する。生徒数は全国におよそ2300人いて、今も自ら授業を受け持つ。宝槻が練りに練った授業はアート編、宇宙編、元素編などのテーマに分かれていて、常に子どもたちを熱狂させている。

オンライン授業に臨む宝槻氏
オンライン授業に臨む宝槻氏(画像提供:探究学舎)

従来の詰め込み型の教育や受験システムが疑問視されている昨今、宝槻の取り組みは教育界で大きな注目を集めている。これまであまり触れられていなかった部分を中心に、彼の歩みを振り返ろう。そこに、今に至る種がある。

宝槻を語るうえで欠かせないのは、彼の父親だ。もともと学校にパソコンとソフトを売る会社を経営していて、自社と周辺のアライアンス企業の売り上げを足すと年商100億円規模の事業に育て上げた人物である。いつも全国を飛び回っていてとにかく多忙だったが、独自すぎる理論で3人の息子(泰伸は長男)を教育していた。

例えば、「1ページ読んだら1円」とルールを決めて、子どもたちに大量の教育マンガを買い与えていた。数学的な思考を鍛えるために、幼い頃からブラックジャックやポーカーなどのカードゲームを叩き込み、NHKの特番や偉人が登場する映画を子どもたちに無数に観させて、「人間ドラマ」を通して学びへの関心を高めた。

なによりも子どもたちが「夢中」になることを大切にしていて、『信長の野望』(現・コーエーテクモゲームスが展開する歴史ゲームシリーズ)など自身が学びになると認めたゲームをもっと続けたいという理由であれば、学校を休むことすら許した。

テレビにスポーツ、ファッションの話題ばかり──高校に幻滅して中退

宝槻と父親とのエピソードはほかにも挙げればきりがないが、忘れがたいのは、自宅に訪ねてきた父親の友人たちとの交流だ。父親は客を家に呼ぶのが好きで、しょっちゅう知らない大人が家にいた。そのなかには大学教授やマジシャン、芥川賞作家もいれば、道端で知り合ったという外国人もいた。

「子どもからしたら、レジェンドみたいなおじさんがたくさんいました。そういう人たちと接しているうちにレジェンドのことを特別に意識しなくなって、平凡な人間になるのはイヤだ、俺もスペシャルな人間になろうと思っていました(笑)」

はたから見れば特殊な環境ながら、充実した子ども時代を過ごした宝槻が初めて挫折を味わったのは中学2年生の時だ。成績が良く、スポーツも得意で、「女の子にモテモテ」だった栃木の中学から宮崎に引っ越すと、転校先では不良たちが幅を利かせていた。そこで評価されるのは腕っぷし。優等生タイプの宝槻のヒエラルキーはがた落ちし、卒業まで辛酸をなめた。だから、不良とオサラバできる高校生活を楽しみにしていたのに、高校は期待外れだった。

「僕が高校に抱いていたのは、『坂の上の雲』に出てくる大学予備門みたいな、自由闊達でやる気にメラメラと燃えていて、人生を熱く語り合うイメージでした。でも、実際はテレビとスポーツ、ファッションと音楽の話題ばかりで、二言目には『めんどくせぇ』『だりぃ』とみんな言っていて、求めていたものと違いすぎましたね」

学校は管理型で校則にうるさく、恋愛も禁止。あらゆることに幻滅した宝槻は、高校1年の2学期、「高校を辞めたい」と両親に相談。父親は「いいよ」と即答した。

バーで過ごした青春時代

こうして高校2年に進級するタイミングで退学した宝槻は、父親の縁で知り合った地元の年上の先輩に連れられて、バーに通うようになった。そこは20代の若者が集う店で、名門進学校を退学した17歳の宝槻は、思いのほかかわいがられた。

週に3、4回はバーに足を運び、帰宅時間も遅かったから、父親から「今日も行くのか!」「何時に帰ってきてるんだ!」と叱られることもあった。それでも、バーに集う仲間たちに会いに行った。

ある日の夜。両親が寝静まったのを見計らって、こっそりと家を出た。原付バイクにそっとカギを差し込み、手で押す。家の前でエンジンをかけたら、その音で親が目を覚ますかもしれない。300メートルほど離れたところでエンジンをかけ、原付バイクにまたがると、グッとアクセルをふかした。夜風を切って走るのが気持ちよかった。

バーで朝方まで過ごした帰り道。同じように自宅の300メートルほど前で原付バイクを止めて、自宅まで押す。そーっと家に入り、誰も起こさず自室にたどり着いたのは朝4時。「今日も楽しかったな」と眠りについた。

親に怒られてまでバーに通い続けたのは、「大人の世界」が刺激的だったというよりも、そこに居場所があったからだ。

「僕はバーの仲間にフラワーって呼ばれていたんですけど、一緒に昼間にサッカーをしたり、買い物に行ったり、映画を観たりするようになりました。高校を中退したことも含めて、みんなが僕のことを認めて、仲間に入れてくれたから、穴が空きそうだった心をすごく潤してもらった感じがあります。そこに青春がありましたよね」

父が開いた塾「プラトン学園」から京大へ

宝槻は大学検定取得のために通信制の高校に通っていて、バーに通っていたのは高校2年生の7月から年末まで。年が明けてからは、一気に受験モードに切り替えた。高校を辞めた時、父親と「京都大学に入る」と約束していたのだ。バーの仲間たちも「ちゃんと勉強して、京大に行け」と応援してくれていたから、期待に応えたかった。

このタイミングで、父親が自宅を改装して塾を開いた。京大受験を控えた長男と、高校受験をしなかった次男を京大に入れるために、自ら勉強を教えようと立ち上がったのだ。

3人の息子のネットワークを駆使し、近隣の子どもたちを集めて始めたのが、「プラトン学園」。父親はこの時も、エーリッヒ・フロムの『自由からの闘争』の洋書を暗唱させたり、数学の公式が誕生した経緯を理解するために数学者の伝記を読ませたりと、独自の理論で教えた。

それが受験の役に立つのかと疑問に思う読者も多いだろうが、その効果は結果が表している。宝槻は京都大学経済学部に一発合格。その後、次男、三男も京大に進んだのである。

2000年、京大に入学。高校には求めていたものがなかった宝槻だが、京大は期待以上だった。

「入学したその日に、めっちゃかっこいい人とかわいい人がこんなにいんのか! と驚きました。ファッションもユーモアもセンスがキラキラしている先輩がたくさんいて、衝撃を受けましたね」

大学に入ってから最初の1、2年は慌ただしく過ぎた。宝槻家は岡山に引っ越し、そこでも塾を開いた父親から「手伝え」と言われたため、週末や夏休みなどに塾の講師を務めた。そこで教えていた女子高生と付き合うことになったこともあって、頻繁に岡山に帰るようになった。

父親の縁で知り合った、京都市立堀川高校の荒瀬克己校長(当時)にも惚れ込んだ。荒瀬氏は「すべては君の『知りたい』から始まる。」というメッセージを掲げ、子どもたちの好奇心に火をつける教育にかじを切って国公立大の合格者を30倍に増やした。その改革は「堀川の奇跡」とも呼ばれている。「自ら探究する心を育てること。そうすれば生徒は自然と学びだす」という荒瀬氏の教育論に心酔した宝槻は、堀川高校にも通った。荒瀬さんとの出会いが、探究学舎の原点になっている。

「本を書いてスターになってやろう!」

20歳の時、宝槻はこれまでの自分の歩みを記そうと本を書き始めた。従来の詰め込み型の学校教育への不満がベースにあり、高校を中退しても京大に一発合格した自分の経験、合格に導いた父親のメソッドなどを記そうと考えた。本腰を入れて執筆するために、大学を1年休学した。この時は「本を書いてデビューして、スターになってやろう!」と考えていたそうだ。

しかし、思ったように筆が進まない。何度も書き直しているうちに、完全に行き詰まった。不甲斐ない自分に腹を立てていたら、同じタイミングで長く付き合っていた彼女にフラれた。それで精神的にノックアウトされた宝槻は、栃木県にあるお寺を訪ねた。そのお寺の住職とは家族ぐるみで仲良くしていて、京大に合格した時には京都まで訪ねてきて、一緒にお寺を回るような関係だった。

宝槻にとって、住職は「人生の師匠」。いつも通りに自分を迎えてくれた住職と一緒にお風呂に入りながら事情を話し、「弟子入りさせてください。ここで修行させてください」と頭を下げた。そうでもしないと、今の情けない自分から立ち直ることができないと思い詰めていた。すると、住職は宝槻を見つめ、穏やかに言った。

「寒蝉(かんせん) 枯木(こぼく)を抱き 鳴き尽して 頭を回らせず」

これは、「時期外れだとしても、蝉はただ鳴き尽くす。ただ一生懸命に鳴き、天分を全うする」という意味の言葉だ。住職に「心から納得できる道を行け。余計なことは考えるな」と言われた宝槻は、風呂場で号泣。「自分の道を突き進むしかない」と京都に戻って復学した。本を書くのではなく、自分の血肉となった探究型の学習を広めることを決意。その第一歩としてひとり暮らししていたアパートで塾を開き、教育関係の学生団体を設立するなど精力的に動いた。

そして、2005年に大学を卒業するとすぐに上京して起業したのである。八王子の高校で出前授業を請け負いながら、オンライン化に失敗して窮地に立たされたのは冒頭に記した通り。その後も、順風満帆にはいかなかった。

職業訓練校で開いた、大人も変える熱血講義

2009年、結婚して子どもが生まれたばかりなのに稼ぎを失った宝槻を救ったのは、ひとりの友人だった。職業訓練校を立ち上げようとしていた経営者を紹介してくれたのだ。

その経営者と意気投合し、できたばかりの職業訓練校で、コミュニケーション力を高める講習、パソコンを使った情報教習などを手掛ける「社会人基礎訓練」を請け負った。とはいえ経験ゼロなので、経営コンサルティング会社に勤める友人にノウハウを教えてもらって、講義をアレンジした。

職業訓練校の学生は、20代から50代までの社会人。全員がモチベーション高く参加しているわけではない。全国、どこに行っても最初は「シラーっとした雰囲気」だったという。

そこでひるんでいては、仕事にならない。宝槻は塾の講師や出前授業で鍛えた話術と教える技術をフル稼働させて、講義に臨んだ。笑いを取り、熱く語りかけ、ストーリーを伝える。子どもたちをその気にさせたスキルは、大人にも通じた。宝槻の講義は2週間あり、全国どこに行っても、その間に生徒たちは見違えるほど前向きになった。

最終日を終えた後の懇親会には、宝槻の周りに生徒の輪ができた。「先生、楽しかったよ!」「また会いましょう!」という言葉を聞きながら、宝槻は「大人だって変わるんだ!」という確かな自信を得た。

宝槻をスカウトした経営者の手腕もあり、職業訓練校はわずか2年でおよそ20校に増えていた。講師として高給をもらうようになり、やりがいも感じていたから、全国を巡る生活に不満はなかった。ところが想定外の出来事で、この職業訓練校ビジネスが消滅してしまう。

2011年3月11日に起きた、東日本大震災。この未曽有の災害によって、もともと厚生労働省から得ていた多額の補助金が復興に割り振られてしまった。補助金ありきのビジネスモデルだったため経営が成り立たなくなり、震災からわずか1年で全校が閉鎖されることになった。

「テストと受験対策の塾」からスタートした探究学舎

再び仕事を失った宝槻は、「一緒に塾を開こう」という父親からの誘いに乗ることに。2011年、東京・三鷹に学習塾「探究学舎」を開いた。

これは決して前向きな決断ではなかった。妻からは「ヤスくんがやりたいことをやるべきでしょ? それは塾なの?」と問われた。しかし、新たに資金調達するのは難しいし、補助金に頼るビジネスは怖い。これまでの経験と貯金、自分の身体ひとつでできる仕事を考えたら、塾を開くという選択肢しか思い浮かばなかったのだ。

資金に余裕がなかった宝槻は、「変わった塾開校」というインパクトのある白黒のチラシを作り、新聞の折り込み広告を出した。問い合わせをしてきた人は全員塾に入ってもらうという意気込みで、父親とふたりで対応した。

塾が始まると、磨き抜かれたトークがさく裂し、あっという間に子どもと親を魅了。開校して3カ月には生徒数40人、1年半後には100人を超えた。

塾の経営はひとまず軌道に乗ったが、気は晴れなかった。当初は小学生から高校生までを対象に、国語、算数(数学)、理科、社会、英語の5教科を教えていて、「成績向上」「受験合格」を掲げていた。もちろん、探究学習的なアプローチを織り交ぜていたものの、塾生と親は「テストの点数が上がる」ことを求めて通ってきている。その期待に応える授業をすることに集中できなかった。

「生徒や親が期待した通りの成果を出すというところで、ちょっと苦しみましたね。そもそも、テストの点数を上げることにコミットするのが嫌だったし、意味ないって思っているんで。意味ないことを一生懸命やるのはつらいじゃないですか」

コロナ禍以前の探究学舎(画像提供:探究学舎)

三鷹に探究型学習の金字塔を打ち立てよう

テスト対策に疑問を持っていた宝槻は、少しずつ探究型の学習にシフトさせた。その大きな後押しになったのが、2014年に出版した書籍『強烈なオヤジが高校も塾も通わせずに3人の息子を京都大学に放り込んだ話』だ。

学生時代に書こうとしていた本は、自分が主人公だった。そうすると、どうしても自慢話のようになってしまう。そこで、この時は父親を主人公に据えて、宝槻家のユニークな教育を面白おかしく書きながらも、教育の本質とはなにかを問いかける内容にした。この本がヒットしたことで、塾は探究型学習の理解を得やすくなった。

まずは小学生の授業で「宇宙編」「元素編」「経済金融編」「戦国英雄編」というテーマごとにクイズやゲーム、実験、映像、音楽などを駆使した探究型学習の割合を増やしていった。同時に中学生と高校生の新規募集をやめ、小学生だけになったのが2016年ごろのこと。そこからさらに従来の「お勉強」の時間を削り、2018年には完全にゼロになった。

この時にはすでに探究学舎は教育業界で話題になっており、週1回の授業で月額2万円と高額ながら、生徒数は三鷹の校舎で収容できる最大人数の500人に達した。2018年の夏休みには、誰でも参加できる授業「探究ツアー」を開催し、1500人を集客した。これだけ注目されながら、教室を増やさなかったのは理由がある。

「ずーっと考えていたのは、ともかく三鷹に金字塔を打ち立てようということ。それなくしてスケールはないと思っていましたね。探究学舎でしか体験できない授業があって、かつそれを噂で聞いて参加した人が『うわ、これは本物だ』と衝撃を受ける。でも、その授業は三鷹に来ないと受けられない。伝説のクリニックみたいな感じになることを目指していました」

子どもたちを盛り上げる宝槻氏(画像提供:探究学舎)

1万5000円で授業をオンライン配信

迎えた2019年3月、人気番組『情熱大陸』に取り上げられたことで、宝槻と探究学舎の名前は瞬く間に全国に広まった。これで「金字塔を打ち立てた」と感じた宝槻が、次のステップとして始めたのがオンライン化だった。

冒頭に記したように、その10年前の2009年、宝槻はオンライン学習の事業化に失敗して手痛いダメージを被っていたが、頭のなかにはずっと「俺の授業を全国に届けたい。そのためには、インターネットしかない!」という想いがあった。

この想いが再燃したのは、偶然だった。2018年の冬、知り合いに請われてZoomでオンライン講演をした。その時、デモンストレーションとして、いつも三鷹の教室で子どもたちにしている算数の授業をしてみたところ、画面の向こうに映る参加者の表情がイキイキしているのがわかった。

「これはいける!」

確かな手ごたえを感じた宝槻は、人気授業のひとつ「宇宙編」のシナリオをオンライン用に再編集。2019年6月、全6回配信のオンライン探究授業「宇宙編」をリリースした。当時は「授業といえば対面」が常識で、1万5000円で小学生向けの授業を配信するのは前代未聞だった。

しかし、ふたを開けてみれば約1500人が受講。アンケートには、子どもたちの親から「感動しました」「うちの息子、震えてました」と興奮気味のコメントが並び、宝槻は「(子どもたちの心を)完全に撃ち抜いた」と確信した。このオンライン授業の波及効果もあったのだろう。夏休みに地方を巡って「探究ツアー」を開催したところ、参加者は累計5000人を超えた。

コロナ禍にチャネル登録者が5倍に

これで一気にオンラインにかじを切ろう……とはならなかった。リアル授業の熱気を知る親や子どもにとってオンライン授業は物足りず、「リアルの劣化版」のように受け取られていたという。

テーブルをひっくり返すように、このイメージを一瞬で覆すきっかけになったのが、新型コロナウイルスの感染拡大だった。2020年2月27日、政府は感染拡大防止のため、全国の小中高に3月2日から臨時休校を要請した。突然のことで、学校現場はもちろん、小中高生の子どもを持つ親もパニックに陥った。この時、宝槻は瞬時に決断した。

「3月2日から15日間、平日の朝10時半からオンライン授業を無料でライブ配信しよう」

すぐにスタッフの了解を取り付けた宝槻は、自身のFacebookで告知した。すると、その投稿が驚くほどシェアされ、拡散していった。

準備期間は、2日。最初はすでに手元にシナリオがある「宇宙編」でいこうかと考えたが、やめた。そして、イチから作り始めたのが「偉人編 スティーブ・ジョブズ」。この一発目の授業に、それまでのノウハウのすべてを懸けた。

「いきなり休校になって子どもの時間が余って、これからどう過ごそうかと悩んでいる親は、とりあえず観てくれるだろう。でも最初につまらないと思ったら、翌日は観ない。初日がキモだ」

徹夜してシナリオを完成させた宝槻は、3月2日10時半、疲労や眠気を振り切るように、ハイテンションでカメラの前に姿を現し、いつもと同じく語りかけるように授業をスタートさせた。

ジョブズのメッセージに自分を重ね合わせたのか、宝槻は時折涙ぐみながら、ジョブズの歩みや言葉を紹介していった。ユーチューブでの配信が始まった頃、約2700人だった視聴者は、1時間あまりが過ぎ、配信が終わるころには4000人に達していた。

翌日以降も、授業は続いた。配信前、約1万人だった探究学舎のチャネル登録者は、最後の配信を終える頃、4万人になり、通算での再生回数は52万回を超えた。

24歳の時のアイデアを実現する

振り返ってみれば、収益も何も考えずにスタートしたこの15日間が、探究学舎のその後の運命を決めた。4月に入り、新型コロナウイルスの感染がさらに深刻化し、学校では教室での授業ができなくなった。未曾有の危機に、宝槻は腹をくくる。

「探究学舎のすべての授業をオンラインに移行しよう」

4月7日、最初の緊急事態宣言が発令された日、オンライン授業「海洋生物編」をリリースした。月額1万円のコースで、募集枠は1000人。これが1日で満席となる。キャンセル待ちが殺到したため、600人の追加枠を用意したところ、これもすぐに完売した。そして今、オンライン授業の受講生は約2300人に達している。

しかし、宝槻はこの数字に満足していない。オンライン授業を1年半続けてきて、課題が明確になっているからだ。

「今は2カ月に一度、テーマを変えています。それでも継続率は90%ぐらいなんですが、ひとつのテーマで満足したユーザーの10%ぐらい、だいたい200人が離れています。新たに募集するとその分は埋まるのですが、今後は継続して受講してもらう仕組みが必要で、今、作っているところです。うちの認知度は、今10万人くらいかな。それが10倍になったら、日本の教育がちょっと変わってきたかもって思える数字ですね」

それはいつ頃ですか? と尋ねると、宝槻はさらりと言った。

「3年から5年。その後は違うことをやります」

違うこと?

「はい。全国津々浦々に、寺子屋のような探究学舎の小さな箱を作ります。そこを地域のコミュニティにしながら、オンラインとリアルのコミュニケーションが融合された形で探究学習をさらに広げていきます。なにかしらの専門性を持った1000人ぐらいの大人に先生として登録してもらって、子どもたちがリアルでも、オンラインでも自分が好きなものを学べる場にします。探究学習のポータルサイトになって、生徒と講師のマッチングをするんです。そうすれば、子どもたちも全国に同じものが好きな仲間ができる」

実はこのアイデアは宝槻が24歳の時──16年前から温めていたものだ。当時からすでにオンラインで展開しようと「市民先生プロジェクト」と名付けた企画書を書いていたそうだ。

「でも、当時は実現できなかった。ようやくできると思うと、ワクワクしますね」

宝槻の話を聞いていて、「偉人編 スティーブ・ジョブズ」の授業を思い出した。

「失敗する人は途中であきらめてしまう。必要なのは、強い情熱なのだ」

宝槻自身の「探究」は、まだまだ続く。その姿がきっと、子どもたちの背中を押す。