
- “作品愛のある”ファンの力とテクノロジーを活かしたファン翻訳
- 海賊版制作者の中には「正義感」で動いている人もいる
長年にわたって大手出版社を悩ませてきた「海外海賊版」問題。この課題を“熱狂的なファンの力”とテクノロジーを活かして解決できないか──。そのような発想のもと、小学館で漫画アプリとコミックサイトを運営するマンガワン編集部とマンガ特化の翻訳システムを手掛けるMantraが新たな取り組みを始めた。
両社は第一弾プロジェクトとして『ケンガンオメガ』などの正規翻訳版の制作をスタート。Mantraが開発する翻訳システム「Mantra Engine」とマンガファンによる“ファン翻訳”を組み合わせることで、日英版の同時配信を実現した。
Mantraによると正規翻訳版が配信されることを受け、一部の海外海賊版制作者グループからは海賊版制作の停止と公開済エピソードの取り下げが発表されるなど、変化が生まれ始めているという。
この取り組みで興味深いのは、作品に対する愛情が深い“ファン”に正規の翻訳版を作ってもらうということ。しかも今回は「もともとは海賊版を作っていた人たち」と交渉し、彼ら彼女らに翻訳を依頼しているというからなおさらだ。
プロジェクトの背景にはどのような考えがあったのか。Mantra代表取締役の石渡祥之佑氏と、プロジェクトを牽引した同社の関野遼平氏に話を聞いた。
“作品愛のある”ファンの力とテクノロジーを活かしたファン翻訳
マンガファンが正式な許諾を得ずに制作する海賊版は、出版社にとってマンガの海外展開を妨げる大きな壁となっている。
Mantraが2021年に実施した海外海賊版サイトの調査では、小学館の出版したマンガにおいて正規版の約5倍の海外海賊版が流通していることがわかった。中でもマンガワンの『ケンガンアシュラ』『ケンガンオメガ』シリーズは、確認できた海外海賊版サイトだけで閲覧回数が1億回を越えており、被害が大きいという。
この問題に対して、これまで出版社では海賊版サイト運営者に法的なアプローチから交渉したり、正式な翻訳版を出したりといったかたちで対応してきた。
ただ翻訳版を制作するには相応のコストがかかる。制作に時間を要すると、その間に読者が海賊版に流れてしまいかねない。
石渡氏によると今回の取り組みで画期的なのは「プロかどうかはわからないけれど作品に対する愛が強い人たちの力と、翻訳システムを活用することで、海外展開のボトルネックの1つだった翻訳とローカライズ業務を効率化できること」だ。
「一方で出版社としては、見ず知らずの個人に(漫画の)元データを渡すことは難しい。また相手がプロの翻訳者とは限らないため、クオリティをいかに担保するかも課題になっていました。これらの課題の解決策としてMantra Engineが活用できるのではないか、そのような話し合いからプロジェクトが始まりました」(石渡氏)

元データの問題については、MantraのメンバーがMantra Engineに元データを入稿。翻訳者は同システムを使って翻訳作業を進めるが、元データ自体はダウンロードできない仕様にすることで悪用を防ぐ。
翻訳の質に関しても、機械翻訳をベースに複数人が相互チェックする体制を整備してクリアする。
Mantra Engineはもともとプロ翻訳者の翻訳作業を支援するためのツールとして作られたものだ。システムにより自動的に翻訳された内容を翻訳者が修正する「人と機械のハイブリッドモデル」を確立することで、多言語展開にかかる時間や価格を抑える。
Mantra Engineは翻訳版に関わる複数の作業者がコラボレーションするためのワークスペースとしての役割も兼ね備えており、今回は同システムを複数人のファンが活用。1人目が自動翻訳の内容を基に修正案を作り、2人目がその内容をさらに修正するといったように、作業を重ねていくことで「みんなでいいものを作る仕組みを整えた」(石渡氏)。
海賊版制作者の中には「正義感」で動いている人もいる
もっとも、翻訳版のパートナーとなるファンを集めるのは簡単ではない。
担当者の関野氏が30人以上の海賊版製作者と個別でビデオ会議を実施し、ヒアリングをしながら「今後海賊版の制作を辞めること」を条件に翻訳版の制作を相談。契約にあたっては身分証明書を確認し、オンラインで直接顔を見ながら内容に間違いがないかを1人ひとり時間をかけて確かめた。
製作者のリストアップには海外のサイトを活用。海外海賊版の投稿サイトに加えて、海賊版を作っているユーザーが集まる「Discordのコミュニティ」をリサーチして、代表者にメッセージを送った。
「日本語の海賊版と異なるのは、海外海賊版の制作者の中には『正規版があまりにも遅いので、自分たちがやるしかない』という自身の正義感で動いている人が存在することです。広告収入を得る目的で海賊版を配信する悪質な人がいる一方で、あくまで自分が好きな作品を多くの人に知ってもらうことが目的の人もいる。(後者であっても)もちろんそれは正しいアプローチではありませんが、適切な仕組みを作ることができれば一緒にやれる可能性があります」(関野氏)
歴史をたどると、たとえば現地でも多くのファンを抱える“ベトナム語版のドラえもん”は当初海賊版からスタートしている。同作品の場合は、小学館がベトナム語版を無許諾で手がけていた現地の出版社と交渉し、出版権に関する契約を結んだ。
ただ今回は海賊版製作者が1社だけではない上に、各国に散らばっている。その整理をMantraがサポートし、同社のテクノロジーも活用しながらファン翻訳の取り組みに漕ぎ着けた。
上述したとおり、こうした取り組みによって小学館とMantraではケンガンオメガなどの翻訳版を日本語版と同時に配信できる体制を実現。海外海賊版の制作者に交渉した結果、すでに3つのサイトが更新の停止を決めた。中には正規版のリンク先を掲載したり、正規版の購読・閲覧を呼びかける制作者も出てきているという。
一方で今後も海賊版を辞めないと答える人もいた。そのうちの1人はポーランド語版を手がけており、「(ポーランド語がローカル言語のため)正規版の展開が見込めないので、ファンに作品を届けるためにも辞められない」という旨の返答があったそうだ。
今回のプロジェクトで同時配信に対応できたのは、あくまで日英版のみ。ファン翻訳の取り組みが「海外海賊版の問題を解決する1つの糸口になるかもしれない」(関野氏)という可能性を感じつつも、英語以外の言語への対応は今後の課題だという。