
- HEROZの経験を通じて、「スポーツ×データ」に挑戦
- 1億円を投資し、日本版「ドライブライン」を建設
- 200人の熱量高い会員をもとに、教え合うコミュニティを形成
- 将来的にはジムで収集したデータをもとに、野球版「スタディサプリ」を開発
データを収集・分析し、課題の解決に役立てる──ビジネスの現場では当たり前のように行われている“データ活用”の流れがスポーツ、特に野球の領域で広がりつつある。
例えば、米メジャーリーグベースボール(MLB)は2015年ごろから、ボールの打球角度や速度を数値化するシステム「スタットキャスト」を導入。「打球速度が時速158キロ以上、打球角度が26〜30度で上がった打球が最もヒットやホームランになりやすい」というデータをもとにフライを打ち上げる、いわゆる“フライボール革命”は大きな注目を集めた。
そうしたMLBの流れを受け、日本でも“データ”が重視され始めた。ここ1〜2年ほどで、ピッチング(球速やボールの回転数・回転軸・変化量)、バッティング(飛距離や打球の回転数、回転軸、速度、角度)のデータを測定・分析できる大型のトラッキングシステム「トラックマン」、そのポータブル版とも言える「ラプソード」が使われるようになっている。

プロ野球を中心にデータの活用が進む一方、まだ課題もある。それがトラッキングシステムの価格だ。例えば、ラプソードは1台71万5000円(税込)もするため、草野球や部活動などアマチュアの選手たちは使えず、結果的に一部の限られた選手しか使えていない。
「もっと野球がうまくなりたい」と思った選手たちが、トレーニングジム感覚で通えて、ラプソードなどの最新鋭の設備を活用してレベルアップを図れる──そんな野球ジムが12月にオープンした。ジムの名前は「外苑前野球ジム(仮)」。東京メトロ銀座線「外苑前駅」から歩いて1分ほどの場所にある。
同ジムには、ラプソードが6台(ピッチング2台、バッティング4台)導入されているほか、プロと同じレベルの粘土質のマウンドが2つ、バッティングゲージが2つ完備。それらを使って投球練習や打撃練習などが行える。会員費は月額2万7500円・入会金が3万3000円(ともに税込)となっており、会員は24時間365日利用することができる。

昨今、フィットネスジムやパーソナルジムは数多く立ち上がっているが、“野球”に特化したジムというのはあまり耳にしない。なぜ、野球ジムを立ち上げようと思ったのか。外苑前野球ジムを手がける、Knowhere(ノーウェア)代表取締役の伊藤久史氏に話を聞いた。
HEROZの経験を通じて、「スポーツ×データ」に挑戦
Knowhereの設立は2020年9月。伊藤氏は、現役の将棋のプロ棋士を打ち負かした将棋AIの開発で注目を集めたAIスタートアップ・HEROZで働いた経験を持つ人物。HEROZでは主に金融、エンタメ領域において、AI関連の開発に取り組んできた。
「大量のデータとAIを掛け合わせることで、業務を自動化できたり、複雑な仕事を簡単にできたり、さまざまな付加価値を創出することができます。AIの社会実装に取り組む中、自分が好きなスポーツ領域に目を向けてみたら、全くAIやデータの活用ができていない。また、スポーツのトレーニングなど現場のDXに取り組もうとしている人は知る限りではいませんでした。そうした状況を踏まえ、自分のこれまでの経験と好きなことを掛け合わせ、『スポーツ×データ』に取り組んでみたいと思ったんです」(伊藤氏)
会社を立ち上げた当初、ターゲットにしていたのは“ゴルフ市場”。伊藤氏は「市場規模も大きく、巨大なスペースもいらない。またお金を落とす人たちも明確に見えていた」と当時を振り返るが、考えていくうちに“自分がやる意義”を見出せなくなっていった。
「ゴルフのジムはすでにいくつかあります。それを後追いで自分がやっても仕方がない。新しいことに挑戦できる立場にあるのに、人と同じことをやるのは全然リスクをとっていないなと思ったんです。そこで誰もやっていない、それでいて自分がやるべき意義のある領域を考えた結果、たどり着いたのが野球でした」(伊藤氏)
1億円を投資し、日本版「ドライブライン」を建設
伊藤氏はMLBの試合を欠かさず観るほどの野球好き。そのため、2016年ごろからMLBでは結果だけでなく、トレーニングの段階からデータを活用していることを知っていた。
「映画『マネーボール』で有名になった、さまざまな統計データから選手を客観的に評価するシステム『セイバーメトリクス』は、あくまで試合での成績など“結果”に対する分析です。そこから一歩進み、アメリカでは結果を出すために最先端のデータに基づいて、野球のトレーニングを行うようになっています」
「代表的な施設が米シアトルにあるトレーニング施設『ドライブライン』です。2020年オフに大谷翔平さんが通っていたことでも話題になりましたが、アメリカではデータに基づいてトレーニングすることはもはや当たり前になっているんです」(伊藤氏)
例えば、大谷翔平が投げる“落ちる変化球”を投げてみたい、としよう。アメリカでは大谷翔平の落ちる変化球の回転数や回転軸、変化量といったデータが取得できるため、そのデータをもとに調整をかけていけば、3カ月後にはほぼ同じ球が投げられるようになるという。
「いま、アメリカでは野球をうまくなりたいと思ったら、最新鋭のツールを活用して、いろんなデータを収集し、それをもとにトレーニングしていきます。ただ、日本ではいまだに『練習の合間に飯を食べろ』『たくさん投げ込め』『たくさん振り込め』といった根性論によるトレーニングが常態化している。もちろん、それが絶対にダメだとは思いませんが、自分は野球のトレーニングにもきちんとデータを使う文化を作りたいんです」(伊藤氏)

2020年12月にmint、East Ventures、その他個人投資家から合計5000万円の資金を調達。また金融機関などから5000万円を借り入れ、総工費1億円のジムを建設した。伊藤氏が立ち上げた野球ジムは、言い換えるならばドライブラインの日本版。本気で野球がうまくなりたいと思っている人たちに、うまくなれるための環境を提供する場所だ。
「プロの選手はそれなりのコストをかけられると思いますが、アマチュアの選手たちは数十万円単位のお金を支払うのは難しい。そういう意味では、プロの選手もそうですが、自分はアマチュアの選手たちにぜひ、このジムを使ってほしいと思っているんです」(伊藤氏)

200人の熱量高い会員をもとに、教え合うコミュニティを形成
その一方、「誰もが自由気ままに使えるジムにはしたくない」という考えもあり、外苑前野球ジムの会員費は月額2万7500円となっている。伊藤氏は価格を決めるにあたり、「(24時間営業フィットネスクラブの)エニタイムフィットネスを研究した」という。
「エニタイムフィットネスは価格を安くして、なるべく多くの人に入会してもらう。稼働率は低いけれど、休眠会員も含めた会員費で採算をとるモデルです。一方、自分たちのジムはきちんと使ってもらわなければ意味がない。なおかつ、本気でうまくなりたいと思っている人たちに来てほしいと思っています。ビジネスもそうですが、自分に一定の投資をすることで人は成長していく。だからこそ安くもなく、高くもない、この価格にしました」(伊藤氏)
現在、想定している会員数は200人ほど。その200人でコミュニティをつくり、コミュニティ内で交流したり、技術を教え合ったりできるようにするという。
「ドライブラインも会員のみんなで教え合ってるんですよね。自分たちもそういう場所にしたい。特に外苑前野球ジムには野球をうまくなりたい人たちしか集まっていないので、会員同士で高め合っていけるような環境をつくっていきたいですね」(伊藤氏)
Knowhereのビジネスモデルは現状、ジムの会員費のほか、(外苑前野球ジムをホームグラウンドとして使用する人気野球YouTuber「トクサンTV」や「弾丸ライナーズ」の動画内へのスポンサー企業のロゴ掲載による)スポンサー収入(編集部注:プロ野球中継のバックネット裏の広告のようなイメージ)がメインとなっている。
将来的にはジムで収集したデータをもとに、野球版「スタディサプリ」を開発
今後、都内だけでなく、パートナー企業と組んで地方にもジムを立ち上げる予定だという。そして、その先にはジム内で収集したデータをもとに(理想的な変化球を投げるための)アルゴリズムなどを構築し、それらをアプリを通じて提供する構想もあるそうだ。
「すでにスマートフォンのカメラで、ボールの回転数を計測することができます。また、この1年ほどでベースとなるアルゴリズムも構築しました。とはいえ、データの精度を向上させたり、いろんなパターンを検証したりするためには、たくさんのデータが必要です」
「そういう意味で、ジムはデータを取得するための研究所でもあります。ジムでたくさんのデータを収集し、それをもとにアルゴリズムをつくり、最終的には有料課金型のアプリを提供する。将来的には、そういった展開も考えています。ジムは真似されるかもしれませんが、アルゴリズムは真似できない。それが会社の競争優位性でもあります」(伊藤氏)
具体的には、スマートフォンで10球ほどの投球フォームを撮影したら、「こういう投げ方だと肘を痛めるからやめた方がいい」「こういう変化球が合っていると思う」といったフィードバックが出てくる。そんな世界観を目指していくという。分かりやすいイメージとしては、野球版の「スタディサプリ」だろう。
「野球は人がやっている部分が大きいので、やっぱり人の思い込みが指導に大きく影響しているんですよね。例えば、今年沢村賞を獲得した山本由伸選手の投げ方は『あまり良くない』と言われます。ただ、圧倒的なパフォーマンスを出している」
「こういう話はきっとたくさんあると思うんです。人間が『これが正しい』と思ってた、いわゆる指導の定石がデータを解析した結果、ひっくり返ってしまう。それはスポーツの領域でも十分にあると思っていて、自分はKnowhereを通じて、そういう発見をしたいと思っています」(伊藤氏)
