
- 「本当に怖いのは、お化けじゃなくて人間」
- ボーダレスハウスで学んだこと
- 知られざる難民申請者の苦境
- 当たって砕けろの飛び込み営業
- 難民申請者のポテンシャル
- 商店街で中古パソコンを手売り
- 1週間で200万円の売り上げ
- 功を奏したリブランディング
- 「難民申請者100人雇用」へ
「都市鉱山!?」
2017年夏、ウェブメディアでたまたまこの言葉を目にした青山明弘は、気になって意味を検索した。都市鉱山とは、オフィスや家庭に眠るパソコンなどの小型家電に含まれる金、銀、銅、白金、コバルトなど有用な金属を指す。日本における埋蔵量は、世界の資源大国に勝るとも劣らないと言われている。
その頃、青山はある「目的」を果たすために起業することを決めたものの、その手段としてなにをしようか迷っていた時期だった。
目的とは、「日本で難民申請している人たちが働ける場所を作る」こと。そのために、ゲストハウスや飲食店の経営、中古自転車や農業機械の修理と輸出などさまざまな事業を検討したが、調べたところすでに競合がひしめきあっていたり、十分な人件費を確保するのが難しかったりして、これぞというものが見つかっていなかった。
そのタイミングで「都市鉱山」という言葉に興味を引かれた青山は、詳しく調べてみた。すると、当時の日本では年間1000万台ほど新品のパソコンが販売されている一方で、廃棄されているパソコンは年間300万台に過ぎないとわかった。

単純計算すれば、残り700万台は使われないままどこかに放置されていることになる。この膨大な数にポテンシャルを感じた青山は、「パソコンのリサイクルで起業しよう」と一気にアクセルを踏み込んだ。しかし、パソコンにはまったく詳しくなかった。CPU、メモリなど基本的な専門用語の意味も知らない。それでも一直線に駆け出したのは、「目的」を果たすためだった。
「本当に怖いのは、お化けじゃなくて人間」
青山は1990年、横浜市で生まれた。近所に祖父母の家もあり、幼少の頃からほぼ毎日、顔を出していた。祖父母が大好きだった青山には、忘れられない思い出がある。
祖父は、前歯が差し歯だった。ほかの歯と色が違ったので、青山少年は無邪気に「なんで?」と尋ねた。「これは本物の歯じゃないんだよ」と答えた祖父に、少年は「なんで?」を重ねた。その時、祖父はしっかり説明しようと思ったのだろう。
戦争の時、友人が不発弾を触っていたら突然爆発して目の前で死んでしまったこと、その爆風で歯が欠けたことを、子どもにもわかるような優しい言葉で教えてくれた。その話を今でも覚えている青山は、なによりも祖父の暗い表情が印象的だったと語る。祖母からも時折、戦争の思い出話を聞いていた。その頃、お化けを心底恐れていた青山少年に対して、祖母は「本当に怖いのは、お化けじゃなくて人間だからね」と言っていたそうだ。
当時は意味がよくわからなかったが、幼心に「戦争=怖いもの」として刷り込まれたのは、想像に難くない。青山は成長するにつれて国際問題や平和に関心を持ち始め、高校時代には「国連で働いてみたい」と思うようになっていた。
進学した慶応義塾大学では、国際問題啓発サークルに参加。先輩がボランティア活動していたカンボジアで地雷除去活動をしている日本人がいることを知り、大学2年生の時、ドキュメンタリー映画を作ろうと現地を訪ねた。そこで「人間はほんとに怖い」と実感したという。

「めちゃくちゃ頭がいい人たちが本気で開発している兵器なので、いかに人間を苦しめるか、軍の兵力を減らすかが考え抜かれているんですよね。それに内戦時に虐殺が行われた現場に行くと、今でも雨が降ったりすると土のなかから人骨が出てくるんです。自分の身内や知っている人がこれに巻き込まれたらと思うと、なんとも言えない感情になりました」
ただし、現地で希望を感じることもできた。取材をした内戦時の元兵士は、「当時は貧しくてなんの知識もなく、『悪魔』と教え込まれた敵と戦っていた。でも、今思えば自分と同じように大切な家族を持つひとりの人間だっただろうし、飲みに行ったら仲良くなれたかもしれない」と言っていたのだ。この言葉を聞いて以来、「貧しさの解決と相互理解が、引き金を引くのを止める力になるのでは」と考えるようになった。
ボーダレスハウスで学んだこと
映画を作り終えて間もなくすると、就職活動が始まった。少し調べれば、いきなり国連に就職するのはハードルが高いとわかる。いずれ目指すとして、どういうキャリアを歩むのかを考えた。その時に、想像した。大企業でビシッとスーツをきて颯爽と働く自分と、稼げなくてもカンボジアのような現場で厳しい立場の人たちのために働く自分。鳥肌が立ったのは、後者だった。ただ、それを大っぴらにはしなかった。
「周りは普通に就職活動をしていたので、友だちに話しづらかったですね。学校では大企業を目指しているふりをしていました(笑)」
吹っ切れたのは、ソーシャルビジネスを通じて社会問題の解決に取り組んでいるボーダレス・ジャパンの面接を受けた時。現在、代表取締役副社長を務める鈴木雅剛氏との面接で4時間近く話し込み、「本気でやりたいんだったら、今やったほうがいいんじゃない?」と背中を押された青山は2013年4月、同社で働き始めた。
ボーダレス・ジャパンでは、およそ4年半、「ボーダレスハウス」という事業に携わった。日本人と外国人が半々で共同生活を送り、国籍を超えた相互理解を深めるシェアハウスである。スタッフはそこで入居や退去の手続き、住民間のトラブル解決など日々の業務をこなしながら、住人のコミュニティを形成、強化する。
青山は日本で1年半この仕事に従事した。その後、新たにボーダレスハウスを立ち上げることになった台湾に異動になり、物件を借りるところから担当した(そこは台湾人と海外の人の割合が半々)。ボーダレスハウスの立ち上げは日本、韓国に続いて3軒目。当時は国際色豊かな環境を求める現地の若者と、現地での接点を求める留学生のニーズが高く、コロナ前の入居率は9割を超えていた。
台湾でも2年間、ボーダレスハウスの事業を担当した青山は、なにを感じたのだろうか?
「人が人を理解するのは難しいなと感じました。でも、そこに国籍は関係ありません。日本人同士でも大好きになる人もいれば大嫌いになる人もいますよね。そして、簡単にわかりあえないなかでトラブルが発生した時に、相手に変わってくれ、直してほしいと言い募るのではなくて、自分もどう変われるかという歩み寄りが求められるものだなと改めて実感しました」
知られざる難民申請者の苦境
台湾から帰国した青山は1年ほど、ボーダレスハウスの入居希望者を増やすためのマーケティング業務に就いた。この時、起業を意識し始めた。ボーダレスハウスは、国際的な相互理解の種まきをする場所だ。しかし、現在進行形で戦争や紛争などの被害に遭っている人の助けにはならない。そこにもどかしさを感じていたのだ。
「もっと当事者に寄り添う仕事がしたい」と考え始めた時、頭に浮かんだのは日本で難民申請をしている人たちだった。学生時代から、「どうやったら紛争をなくせるのか」をずっと考えてきた青山は、ヒントを得るために人づてに難民申請中の人から話を聞いたことがあった。その時、母国での体験の過酷さに言葉を失ったが、同時に日本での生活の厳しさに驚いた。
そもそも、日本の難民認定のハードルの高さは世界トップレベル。例えば、2020年の難民申請者は3936人で認定者は47人と、全体の0.5%しかいない。ちなみに、アメリカは25.7%、ドイツは41.7%など日本とは比べものにならない数の難民を受け入れている国も少なくない。
ここからは、アムネスティジャパンのホームページを参照する。難民認定者は、「定住者」という5年間の在留資格が与えられた後、法律上の要件を満たせば永住の許可も得られる。さらに、生活保障、就労・定住支援も得られる。
一方、難民認定申請中の人たちは極めて不安定だ。在留資格は3〜6カ月で、延長は可能だが、認められる保証はない。これでは、安定した職に就くのは難しい。就労許可を得られる人もいるが、得られない人は1日大人1600円、子ども800円の「保護費」で暮らさざるを得ない。あなたは1日1600円で暮らせるだろうか? 難民申請者から話を聞いて、初めてその窮状を知った青山は、居ても立っても居られなかった。
「最終的に平和構築を目指すとしても、答えが見えずウジウジしてるんだったら、今目の前で困っている人たちのために、なにかできないか」
この時、難民申請している人たちが働ける場所を作ることを目指して、起業する道を選んだ。

当たって砕けろの飛び込み営業
冒頭に記したように、「都市鉱山」というヒントから、中古パソコンを分解して有用金属を販売する事業を思い立った青山。しかし、なんの知識もない。そこで最初にしたことは、買い取り業者を探すことだった。
「まずは売り先を見つけるのが先決だと思ったので、買い取ってくれそうなところを片っ端から訪問しました。それで、なにを、どういう状態にしたら、いくらで買ってもらえるのかを調べました。その後、実際に一台のパソコンからどのくらいの作業で取り出せるのか、友人などからパソコンを集めてやってみました」
青山はこの時、初めてパソコンを分解した。まさに、ゼロからのスタートだったのだ。

分解の技術が身についたとして、事業として成り立たせるためには大量の中古パソコンを定期的に集めなくてはならない。2017年10月、ボーダレス・ジャパンから資金援助を受けて、ピープルポートを立ち上げた青山は、ノウハウゼロの体当たりで中古パソコンの回収に取り掛かった。
最初は、100世帯以上が入居しているような大きなマンションに狙いを定め、管理会社に連絡をした。回収ボックスを設置させてもらう、もしくは回収イベントを開かせてもらうことを希望していたのだが、規模が大きいと判断にも時間がかかるため、早々に諦めた。
次は、今オフィスを構えている神奈川県・菊名駅周辺の家やオフィスを直接訪問した。当たって砕けろの飛び込み営業で、呼び鈴を鳴らして「いらないパソコンを譲ってくれませんか?」と尋ねるのだ。最初は、お金を払って買い取ることを想定していたのだが、これは失敗だった。型が古かったり、壊れているパソコンの買取価格は数百円にしかならない。子どものお小遣いにもならないような価格を見て、怒り出す人もいたという。
そこで考え出したのが、寄付モデル。持ち主から中古パソコンを無料で引き取るのだが、査定価格の数百円を提携する子ども支援のNPOに寄付するかたちにした。これが、効果てきめんだった。
「ボーダレス・ジャパン代表取締役社長の田口(一成)に相談したら、『社会貢献性の高い事業なんだから、お金云々の話はやめて、寄付をアピールしたら集まるんじゃないか』とアドバイスをもらったんです。それで寄付モデルにしたら、明らかに反応が変わりました。世の中のために良いことをしたいと考えている人って実はたくさんいて、家を訪ねて説明をしたら『それなら、いいよ』『探してくるわ』と言ってくれる人もいました」
難民申請者のポテンシャル
この寄付モデルで回収に勢いが付き、飛び込み営業だけで数百台が集まった。さらに、ホームページを立ち上げたことで、少しずつ企業からも回収の問い合わせが来るようになった。依頼が来ると一軒、一軒、訪ねてまわり、自力で回収していたのだが、多い時には1日に8、9件まわることもあったという。
「業者に回収してもらうにしても、万が一データ漏洩したら怖いから得体のしれない会社には出せないし、置いておくスペースがある分には業務に支障がないから後回しになりがち。でも、立て付けが社会貢献になると、それなら応援しようという別のモチベーションが働くので、託していただきやすいんです」
回収のペースが上がっても、分解して部品を選り分けなければ売り上げにならない。起業から3、4カ月経った頃に日本人がひとり、さらにその2カ月後には、知り合いのNOPを介して難民申請中の外国人が加わった。新メンバーのふたりもパソコンの素人だったため、青山が分解と部品回収の方法を手ほどきした。

アフリカからやってきた新メンバーは日本語をほとんど話せなかったが、青山ともうひとりの日本人は英語が得意だったので、社内のコミュニケーションは英語になった。ちなみに、給料などの待遇は日本人と差をつけない。困っている人を雇ってあげるのではなく、ひとりの戦力と捉えて雇用する。それは決して、温情ではない。
「日本に逃れてきている人たちは母国でなにかしらの活動を積極的にしてきた人が多いので、頭もいいし、人脈もあるし、コミュニケーション能力も高い人が多いんです。そのうえで、日本での生活がかかっているので、覚悟が違います。なにかやることはないかといつも聞いてくれるし、自分で調べて、どんどん進めてくれるので頼もしいですよ。日本の新卒の学生に名刺の渡し方から教えるのとは、まったく違いますね」
商店街で中古パソコンを手売り
それぞれが作業に慣れれば、回収と分解のスピードは上がる。3人になって、ひと月の売り上げは数十万円に達した。しかし、ひとつ、無視できない課題が浮き彫りになった。それは、「分解の作業が、単純作業の連続で面白くない」ということだった。
「1日、2日はいいけれど、1年間、これを続けたら病む」と実感した青山は、起業から1年後、方向転換を決める。それまで回収してきたパソコンのうち3割ほどはまだ真新しく、ちょっとした故障で動かなくなっていた。少し手直しするだけで新品同様に動くことがわかったため、「ecoパソコン」として売り出すことにしたのだ。
最初の数カ月、大手のECモールで販売を始めたところ、すぐに行き詰まった。年間何百万台と売っている大手業者がいて価格競争が激しく、まったく勝負にならなかった。そこで2019年2月頃から、商店街の空きスペースを1週間ほど借り、手売りすることにした。青山ともうひとりの日本人スタッフが担当したが、ふたりとも誰かに直接モノを売ること自体が初めてだった。

青山には、忘れられないふたり組がいる。手売りを始めて間もない頃、新小岩駅の商店街でストリート系のジュエリーを売っていた男たちで、ひとりは40代、もうひとりは20代に見えた。彼らに声を掛けられると、通行人は男女問わずかなりの確率で商品を見始め、数分後には財布を開いていた。
ふたりの存在に気づいたのは、青山自身が声をかけられ、自然と足を止めたからだ。「これは絶対テクニックがある!」と確信した青山は、ふたりに事情を話し、「どうやってやるんですか? 教えてください」と頭を下げた。
ふたりは快く、コツを教えてくれた。ポイントは、ふたつ。まず、相手より目線を落としながら目を見て、気づきやすいように手をあげて、笑顔で声をかける。その際、ちょっとしたその人の特徴、例えばお兄さん、お姉さんでも、なにか言葉をプラスする。このシンプルな教えを実践すると、明らかに無視されることが減った。ほかにも、あちこちの商店街で出会ったモノ売りの猛者たちに教えを請うた。
1週間で200万円の売り上げ
その成果なのか「ECモールの競合の1.5倍から2倍」という3万円の価格を付けた「ecoパソコン」は商店街で売れに売れた。多い時は、1週間の売り上げが170万円に達した。もともと商店街で売れるという仮説を立てていた青山ですら、仰天の結果だった。
「今まで中古を買っていた人を対象にすると価格競争になるので、新品しか買ってこなかった人たちに届けようと考えました。そういう人たちのなかには、パソコンに詳しくなく、ネットで買うのが怖いという人もいますよね。それで、生活圏内で認知してもらうために商店街に出展したんです。でも、こんなに売れるとは思わなくて、最初の頃は本当に驚きました」
ここまで売れたのは、実利的に評価されたからだった。難民という言葉や社会貢献性をアピールしても、反応は「へー、そうなんだ」という程度だった。一方、「ecoパソコン」はデータ記憶媒体を新品に交換し、バッテリーも50%以上劣化している場合は新しくしているので、普通に使う分には4、5年は持つ。新品のパソコンでも同じぐらいで壊れると知っていて、パソコンにそれほどこだわりのない人たちが、「それだけ持つなら、安い方がいい」という理由で買ってくれた。そのため、実利面をアピールする方針にした。
商店街で売れるとわかってからは、青山と日本人スタッフは大荷物を抱えて、毎週、どこかの商店街に出展した。月曜に始動、次の日曜夜に販売を終えた後、一式を持ってそのまま別の商店街に向かうという旅芸人のような生活だった。
商店街で実績がたまると、大規模なショッピングモールにも出展できるようになった。消費者にとっては、ショッピングモールで売っているというだけで一定の信頼感につながるのだろう。なんと1週間で200万円を売り上げた時もあるという。部品を売っていた時は数十万円だった月商が、400万、500万、600万と伸びていった。この勢いを加速させようと、2019年6月、もうひとりの難民申請者が加わった。
功を奏したリブランディング
実質、数百円で仕入れたパソコンが数万円で飛ぶように売れていく。青山は経営者として大きな手ごたえを掴んでいたが、足元に開いた落とし穴には気づいていなかった。
2019年の冬、ふたりの外国人スタッフが「会社を辞めて母国に帰る」と言ってきたのだ。振り返れば、日本語がうまく話せないふたりは、ほかに誰もいないオフィスで毎日、毎日、パソコンの修理をしていた。
前述した通り、日本で難民認定される可能性はとても低い。生活も、心理的にも不安定な状態が続くことに限界を感じ、「自分の人生を生きたい」と帰国を決めたのだ。母国に帰れば危険が待っているかもしれない。それでも帰国するというふたりの重い決断に、青山は責任を痛感し、うなだれるしかなかった。
落ちるところまで落ち込んだ後、徹底的に反省した。難民申請者は孤独だ。頼れる身内はおらず、母国語で話せる相手も少ない。彼ら、彼女らに手を差し伸べるのであれば、もっとしっかり寄り添うべきだった──そう考えた青山は、新たにEC部門を立ち上げた。今度はECモールではなく、自社ホームページでの直販にした。
「オフィスにいながらしっかりと売り上げ立てられる方法を見つけたら、状況を改善できるんじゃないかと思ったんです。オフィスにいながら販売ができれば、ランチを一緒に食べたり、コミュニケーションを取りながら仕事ができるので」
NPOを通して、再び難民申請者がふたり加わった。しかし、ECはそううまくはいかなかった。商店街やショッピングモールでは「新品と比べて安い」という理由で売れたが、オンライン上には、安い中古パソコンが溢れている。ショッピングモールや催事に来る客とは異なるターゲットに「ecoパソコン」の情報を届けるためにどうしたらいいのか?
ここで青山は、難民申請者の支援という社会貢献性と、使われないまま眠っている膨大な数のパソコンを再生することによる環境への貢献性をまっすぐにアピールすることを決心。2020年7月、ホームページなども一新し、エシカルパソコン「ZERO PC」としてリブランディングした。
この決断が、強烈な追い風となった。コロナ禍でリモートワークや学生の自宅学習が一気に増加した2020年、国内のパソコン出荷台数は1591万台と過去最高を記録した(MM総研調べ)。当然、中古パソコン市場も活況を呈したなかで、他社とは一線を画すコンセプトによって注目を集めたのだ。
「難民申請者100人雇用」へ
パソコンを引き取ってほしいという依頼が急増すると同時に、「ZERO PC」の注文も一気に伸びた。3万2780円から6万5780円まで4種類の中古パソコンを売る同社の現在の売り上げは1億円。社員8人のうち、難民申請者は4人になった。事業の幅も広がり、回収したパソコンのうち3割は中古パソコンとして再生、5割はアフリカへの輸出、起業当初の部品の販売は2割になっている。
「難民申請者のうちのひとりは大学でコンピューターサイエンスを学んでいました。彼が入ったことで、一気に技術レベルが上がりましたね。輸出に関しては、メンバーからナイジェリアあたりは人口が増えているし若い人たちが多いから中古パソコンのニーズがあると聞いて始めました。日本では売りづらい古いパソコンでも、喜ばれるんですよ。女性のメンバーのひとりは、我々にはできないアフリカ独特のビジネスコミュニケーションで輸出の売り上げをどんどん伸ばしています」

知識、経験ゼロからスタートし、飛び込み営業でのパソコン回収や商店街での手売りを経験しながら、4年半で見事に事業を軌道に乗せた。しかし、「難民申請者100人雇用」を目標に掲げる青山の頭のなかには、これからやりたいこと、やるべきことが渦巻いている。
例えば、政情不安な発展途上国で起業家支援をすること。それが、難民として逃げなければいけない立場になってしまった人たちの、避難先での雇用の受け皿につながると考えている。
「目の前で困っている人たちのために、なにかできないか」という想いに駆られた男の挑戦は、まだ始まったばかり。地図もなく、先の見えない道程だが、行く先々でたくさんの人たちが彼を待っていることだろう。
「比較対象にもならないんですけど、アフガニスタンで亡くなってしまった中村哲さんも、もともとはお医者さんで、でも現地にダムが必要だということで知識ゼロからダムを作りましたよね。まだまだまったくそのレベルではないんですが、僕らが最初の受け皿になって、働きながらスキルアップできる居場所を作っていきます。どんな人でも、日本語がしゃべれなくても、ノースキルでも、気持ちさえあれば大丈夫だから」