コロナ禍で出社の必要な捺印業務の考え方が大きく変わり始めた maroke/gettyimagesコロナ禍で出社の必要な捺印業務の考え方が大きく変わり始めた Photo:maroke/gettyimages
  • 波紋を呼んだIT担当大臣発言 GMOは印鑑廃止・電子解約化を決断
  • 契約電子化には企業トップと 社員全体の両方のコミットが必要
  • 電子契約をはばむ2つの障壁 業務プロセスの変更と行政や銀行の対応
  • 契約電子化は今や効率化ではなく 従業員の命を守るための重い課題

新型コロナウイルス対策として各社で在宅勤務が進められているが、これを妨げる要因に「はんこ」業務が挙げられている。緊急事態宣言の対象地域が全国に拡大された今、IT企業やスタートアップを中心に、契約の電子化を強力に推し進める動きが出てきた。きっかけの1つは竹本直一IT担当大臣の「はんこのデジタル化について民は民で話し合ってもらうしかない」という発言だ。(編集・ライター ムコハタワカコ、ダイヤモンド編集部 岩本有平)

波紋を呼んだIT担当大臣発言
GMOは印鑑廃止・電子解約化を決断

 新型コロナウイルスの感染拡大により、ついに緊急事態宣言の対象地域が全国の都道府県に広がった。外出自粛が強く求められ、在宅勤務を取り入れる企業は増えているものの、「紙とはんこ」を扱う業務のためにやむを得ず出社しなければならないという人も少なくない。

 そうした中、政府のIT活用戦略・デジタル化推進を担当する竹本直一IT政策担当大臣が、はんこ文化とテレワークについて4月14日の会見で述べた内容が、物議を醸した。発言は「日本のはんこ文化がテレワークの障害になっているのではないか」という声に対する見解として、竹本大臣が回答したものだ。

 竹本大臣は、電子署名の採用などによるはんこの省略が進まないことについて「民・民の取引で支障になっているケースが多い」とし、役所の届け出などではデジタル化が進められていると説明。地方自治体と民間との間で一部印鑑による手続きが残っていることは認めたものの、「しょせんは民・民の話」と締めくくっている。

 発言が報道されて、SNS上では「日本の印章制度・文化を守る議員連盟」(はんこ議連)の会長も務める竹本IT担当大臣への批判の声とともに、IT企業トップからの反応も相次いだ。GMOインターネットグループ代表取締役会長兼社長・グループ代表の熊谷正寿氏は4月15日、「決めました。GMOは印鑑を廃止します。」とTwitterに投稿。サイバーエージェント代表取締役社長の藤田晋氏も熊谷氏のTweetを引用する形で「うちも廃止したい。出来るのかな?」と投稿している。

 GMOインターネットグループ(GMO)は、熊谷代表のTweetから2日後の4月17日には顧客が手続きする際の印鑑完全廃止と、取引先との契約を電子契約のみとすることを表明。また同グループのGMOクラウドが提供する「GMO電子契約サービス Agree(以下Agree)」のStandardプランを1年間無償で提供することも明らかにした。

 GMOは1月26日、全グループ4000人のパートナー(従業員)の在宅勤務をいち早く指示しており、定時株主総会の省力化開催など、感染拡大への取り組みを早期から積極的に行っている。

 GMOインターネット会長兼社長の熊谷正寿氏は、今回の表明について、その理由を2つ挙げる。1つは在宅勤務ではどうしてもできない、郵便と捺印業務への対策だ。3カ月前から在宅勤務を開始している同社でも、この2点だけは出社して処理をせざるを得ない業務だ。緊急事態宣言が出ても、どうしても紙の請求書が必要というクライアントもいる。

「私は今の状況を、ただの通勤ではなく『コロナ捺印痛勤(つうきん)』と呼んでいる。痛勤をせざるを得ないパートナー(同社では社員をパートナーと呼ぶ)を守るために何かできないかと思っていた」(熊谷氏)

 また同時に、熊谷氏自身も捺印作業には多くの時間を割いている。これを電子化することは、電子契約サービスの提供者としての立場だけでなく、結果として世の中のためになると判断したと説明する。実際電子契約サービスへのニーズは高まっており、GMOクラウド ソリューション事業部 電子契約サービス推進室の室長、牛島直紀氏によると、Agreeについては3月の新規申し込みは前年比で2倍、契約の結ばれた件数は四半期比(2019年10〜12月と2020年1〜3月の比較)で1.6倍に増加しているという。

 前述の熊谷氏のツイートへのいいねやリツイートといった反応は200万件以上とSNS上で大きな反響があった。だが竹本IT相の発言に対しては、感情的に反応した意図はまったくないと熊谷氏は話す。

「(140字の制限のある)ツイートでは分からないが、大臣の発言は(はんこ廃止の)『きっかけ』というよりは『気づき』を頂いたと思っている。パートナーが“痛勤”していることに対する問題意識は以前から持っていた。また、GMOは自社に電子契約のプロダクトを持っているので、以前からやっていきたかったことだ」(熊谷氏)

 GMOでは熊谷氏の判断から24時間で業務の棚卸しを実施。必要ない捺印業務の即座廃止と、すぐになくせない業務についても期限を付けて廃止に向けて手続きを進めているという。

契約電子化には企業トップと
社員全体の両方のコミットが必要

 竹本IT担当大臣による「政府としては行政手続きのデジタル化を進めている。民は民で話し合ってもらうしかない」という趣旨の発言について、契約書の電子化に詳しい事業者たちはどう見ているのか。電子契約サービス「クラウドサイン」を提供する、弁護士ドットコム取締役・クラウドサイン事業部長の橘大地氏は一定の理解を示す。

「(大臣の発言は)行政のデジタルガバメント化と民間同士のはんこのデジタル化を(説明のために)はっきり区別しようとしたもの。民間同士のはんこのデジタル化は民間企業が電子契約を採用するかどうかの判断であり、その点での認識のそごはない」(橘氏)

 その上で「もっとも、行政からテレワーク化推進のため、民間同士のデジタル化に電子契約という手段があることを後押ししていただけるとありがたい」と橘氏は述べている。

 また今回の熊谷氏や藤田氏の反応については「企業取引の片方がはんこを利用し続ける限り、電子契約採用企業も紙とはんこで契約する必要が生じていた。GMOインターネットグループや、サイバーエージェントのような影響力ある企業の代表が、自らはんこを廃止することを発信してくださることは、はんこのデジタル化の後押しとなる」と橘氏は歓迎する。

 橘氏は今回の各社の動きに対して、日本では早い段階の2015年から電子契約サービスを運営し、経産省のグレーゾーン解消制度を使って電子契約の適法性を明確にする活動にも取り組んできた立場から「一過性のムーブメントとならないよう、(今後もデジタル化に必要な情報を)継続的に発信し続けたいと考えている」とコメントしている。

電子契約をはばむ2つの障壁
業務プロセスの変更と行政や銀行の対応

電子契約プラットフォームを提供し、企業の契約書電子化を支援するスタートアップ、Holmes代表取締役CEOの笹原健太氏は「契約業務や関連書類の電子化を進めるには2つの障壁がある」と指摘する。1つは業務プロセス変更の難しさ、もう1つは行政および銀行などの規定産業が要請する書類の電子化が進んでいないことだ。

「はんこの押印は契約電子化の中でごく一部の作業に過ぎない」という笹原氏は、「押印・紙を前提としたプロセスの変更のためには、企業の押印規定や定款などを見直すことになる。株主総会の決議など、会社法上の手続きを伴う部分もある。また部署をまたいだ横断的なプロセスの変更が必要で、業務プロセスを一から設計し直すことになるだろう」と語る。

 また、竹本大臣も会見で、地方自治体と民間との間では紙とはんこによる手続きが残っていることを認めていたが、「官公庁や銀行などの規定産業に提出する書類で、すぐに紙・押印がなくなることはない」と笹原氏。「紙と電子は当面併存することになるだろう」と推測している。

 笹原氏は「契約電子化のために業務プロセスを見直す場合、社内の横断的な業務フローの洗い出しと、紙が必要な書類と電子化できるものの区分けが必要。構築のためには、法的な知識、業務フローの理解、システムの理解の3つの専門性が必要となってくる。これは大きな改革となるため、トップのコミットと、現場を含む全社のコミットの両方がなければ進められない」と話す。

「契約電子化は企業にとって長期にわたり、かつ困難な取り組みになる。したがって、やり遂げるには強い意志が必要だが、実現できれば業務プロセスが全面的に見直されるので、生産性は大きく向上するだろう。今回の熊谷氏や藤田氏ら、大手企業のトップが進んで発言していることは、良い転機になるのではないか」(笹原氏)

契約電子化は今や効率化ではなく
従業員の命を守るための重い課題

 竹本大臣の発言に関連して、Twitterで「この件(電子契約推進)を本気で進めたいのならば、自分たちが盛り上がって気持ち良くなるのではなく、どうすれば相手企業の方々が方針転換を意思決定し、社内プロセスを転換できるか、そこをサポートするのが私たち新しい業界の人間の役割だと思います。」と投稿していたのは、メルカリ会長室 政策企画ディレクターの吉川徳明氏。経産省、日本銀行、内閣官房などで政策を担当した後、ヤフージャパン、メルカリで政策企画に携わり、官民それぞれの事情に明るい人物だ。

 吉川氏は「大企業の場合、トップがデジタル化を進めるぞと号令をかけても、部署や事業所により業務フローは全く違っており、フローの大幅な見直しが必要になる。大きな経営判断が必要だ」と笹原氏と同じく、プロセス見直しのハードルの高さに触れている。

 さらに「社内の業務フロー変更より、社外のやり取りの電子化のほうが問題」と吉川氏。メルカリグループでは、新型コロナウイルス感染拡大の長期化を受け、4月8日の時点で電子署名による契約締結の推進を表明しているが、「契約の電子化は相手あっての話。プロセスを受け入れてくれるかどうかが問題」と、一筋縄ではいかない状況について説明する。

「メルカリでも4月8日以降、取引先とコミュニケーションを取っているが『すぐには移行できません』というところも、もちろん多い。先方も全体的なフローの見直しを迫られるので、当然だ。また取引先で窓口となっている人にとっては、前例もなく、相談する相手が自分の上長でよいのかどうかさえ分からない、ということも多いのではないか」(吉川氏)

 吉川氏は、契約電子化は平時でも決断が難しい経営課題だとして「新型コロナウイルス対策や自粛要請への対応など、目の前の課題だけで精いっぱいというところへ(重い経営判断を伴う)負担をかけることになるので、簡単ではない。我々としてもどこまでサポートできるか、いろいろ検討しているところ」と述べている。

 検討している対策の中には「政府に民間の電子契約の実情を伝えていくこと」も含まれると吉川氏はいう。「IT担当大臣が事情を分かっていない、などと騒いでいてもしょうがない。電子化を進めたくてもできないのには理由があるわけで、経営者が『よし、やろう』と思うには政府の後押しも必要。新型コロナウイルスの影響で契約の電子化への勢いは出ているところなので、『やりたいのにできない』というのはもったいない状況だ。なぜできないのかを分析して、推進する必要がある」(吉川氏)

 メルカリでは社内のペーパーレス化は進んでいたということで、電子化そのものへのハードルは低く、「一部既存システムとの連携で調整が必要だが、ある程度時間をかければ契約電子化も実現できる」と吉川氏は話していたが、一般には、それ以前の課題が立ちふさがる企業も多いことだろう。

 吉川氏は電子契約の社会への浸透について「すぐには実現できなくても、変えなければ進まない。今回の機会を生かして(紙・はんこの実情を)変えていこうというコミットメントを、みんなでできるようになれば」と期待する。「電子契約はこれまで、働き方改革や生産性、効率向上の文脈で捉えられてきたが、今や、従業員の健康や命を守るという、より重い経営課題となっている」(吉川氏)