
- 商売の原体験は小学生時代に公園で売ったアイス
- 22歳で会社売却、ハローワークで見つけた町工場へ入社
- 半年の売上は7000円、顧客はわずか1社からのスタート
- 成長の要因は「業界で非常識と思われていたことをやり続けた」こと
- ダンボール製造業から受発注プラットフォームへの進化
- コロナ禍で急成長も組織崩壊の危機、離職率は55%に
- 資本参加の結果として訪れた変化
- 会社の成長を考えると「代表交代がベストだと考えた」
ダンボールを軸とした梱包材領域の専門ECサイトとして事業を拡大し、年商約60億円を誇るダンボールワン。同社は少々“異質”な経歴を持ったIT企業だ。
代表取締役社長として長年成長をけん引してきた辻俊宏氏(2022年8月1日付で代表を退任)は、19歳の時に食品ECを運営する会社を起業し、22歳で売却を経験した。その辻氏が次なる挑戦の場として選んだのが“ハローワークでたまたま見つけた”能登紙器だ。
1978年創業の能登紙器は石川県七尾市でダンボールの製造販売を手がけていた町工場で、辻氏が2005年に入社した当時の社員は5人のみ。社内にはパソコンが1台もない状態だった。そこで約半年後、辻氏はゼロからECサイトを開設し、ダンボールのオンライン販売を始める。これがダンボールワンの原点だ。
最初の半年間の売上はわずか7000円で、獲得できた顧客は1社だけ。苦しいスタートとなったが、ユーザーの声をヒントにサービスを改善しながら実績を積み重ねていくと、2017年には会社の売上の8割をECが占めるまでになった。
同年10月には、すでに代表に就任していた辻氏がMBOというかたちで会社の経営権を取得。“プラットフォーム化”を推進しながら事業を広げていく中で、2020年にラクスルから出資を受け、2022年2月に同社の100%子会社となった。
どういった背景で町工場からダンボールECが生まれ、現在に至るまでにどのような道筋をたどってきたのか。辻氏に話を聞いた。

商売の原体験は小学生時代に公園で売ったアイス
辻氏は石川県七尾市の兼業農家の家庭で育った。“最初の商売”にチャレンジしたのは小学生の時のこと。「月に100円のお小遣いをどうすれば増やせるか」を考え抜いた結果、近所の駄菓子屋で20円の棒ジュースを5個仕入れ、近くの公園で30円で売ってみることにした。
とはいえ、何の工夫もせずに20円のものを30円で販売しても、なかなか買ってはもらえない。そこで今度はその棒ジュースを自宅の冷凍庫で凍らせ、駄菓子屋から少し離れた公園で売ってみた。すると40円や50円でも買ってくれる人が出てきたという。
「その体験を通じて学んだのが、同じ商品でもちょっとした付加価値を加えることで売れる可能性があるということ。そして売る場所も大切だということです。駄菓子屋の近くではなく、別の場所で売ってみると売れたりする。当時はビジネスの専門用語などは知りませんでしたが、市場を変えてみることで(顧客への)価値を高められるということを、なんとなく理解するきっかけになりました」(辻氏)
その後は友達から購入したメンコにキャラクターのシールを貼り、“オリジナルのメンコ”へと変えて学校で売ってみたり。同じような要領でコマを改造して販売してみたり。小学校、中学校とそのような“商売”を続けていくと、高校生の頃には100円の元手が50万円ほどに増えていたという。
そんな辻氏は高校に入学後、貯め込んだ資金を投じてパソコンを購入する。「これからはインターネットが伸びて、物の売買などもインターネットが主になる時代がくる」。そう確信したからだ。
パソコンを買ってからは、辻氏の商売の場所もインターネット上に変わった。ブログやまとめサイト、アイドルのファンサイト、ゲーム攻略サイト、食品ECの比較サイトなどさまざまなサイトを運営。月の売上も10万円、20万円、30万円と増えていった。
短大に進学後も同じようなことを続けていたが、次第にメディアサイトで人が作ったものを紹介するだけでは物足りなくなっていく。そこで当時手がけていた食品ECの比較サイトをピボットし、地元石川県の農家などから仕入れた商品を販売する食品ECサイトを開発。会社も立ち上げた。
2002年、辻氏が19歳の時のことだ。
22歳で会社売却、ハローワークで見つけた町工場へ入社
食品ECサイトは数年である程度の規模まで成長したものの、辻氏は2005年に事業の売却を決断する。BtoCの領域ではヤフーや楽天といったプラットフォーマーが台頭してきており、「この状態のままやっていても伸び悩んでしまう」と考えるようになったのが理由だ。
一方で、新たな可能性も見出していたという。確かにBtoC領域においては強力なプレーヤーが登場してきていたが、BtoB領域ではそのような存在がいない。IT化自体も進んでおらず、中でも製造業はアナログな側面が多いように感じた。
「ここにITを持ち込めば、課題解決にもつながり、大きなインパクトを与えることができるかもしれない」。この領域で事業を作りたいという思いが強くなったが、当時の辻氏は「22歳の若造で、製造業のことは全くわからない」状態だった。
「まずは一度製造業の企業に就職して現場の解像度を上げ、課題を見極めてから事業を立ち上げようと考えました。それなら大企業よりも中小企業の方が現場の課題が見えやすく、課題解決にも挑戦させてもらいやすいのではないかと思ったんです。だから大手の求人サイトなどではなく、地元のハローワークに行って製造業の会社を探してみたところ、能登紙器を知りました」
「いくつかの選択肢の中からダンボール業界を選んだのは、インターネットで売るのが一番難しそうな商材だと感じたからです。当時ダンボールは(スーパーなどで)無料でもらえるものでしたし、実際にネットで探してみてもほとんど売っていなかった。そもそも業界自体がITとは無縁の世界だったこともあり、これはハードルが高く、その分だけやりがいも大きいと思いました。ゲーマーだったこともあり、せっかくやるならハードモードに挑戦したかったんです」(辻氏)
当時の能登紙器は社員5人、平均年齢が約55歳の会社だった。経営は赤字の状態で売上は1億円程度。ピーク時と比べると半分以下になっており、しかも1社への依存度が高く下請けに近い状態だった。
そんな状況下で事業の売却経験のある若者が入社してきたため、最初は「救世主のように扱われた」という。
辻氏が入社した時点ではまだパソコンが1台もなく、在庫表や仕様書の作成などもすべて手書きでこなしていた。そこでまずはパソコンを導入してもらい、アナログな業務をITを使いながら効率化していくことから始めた。今で言えば業務の「DX」だ。
業務効率化と並行して、辻氏はダンボールをオンラインで販売するためのECサイトの準備にも取り組んでいた。約半年が経過した頃、ついにこのECサイトが始動する。ダンボールワンが産声を上げた瞬間だ。

半年の売上は7000円、顧客はわずか1社からのスタート
準備期間を経てローンチしたECサイトではあったが、その反響は辻氏が思い描いていたようなものではなかった。スタートしてから半年間の売上はわずか7000円。獲得できた顧客はたったの1社だ。
「こいつ、もしかしたら大したことないんじゃないか」。社内からも次第にそのような目で見られるようになっていった。
「ネットで買うと送料がかかってしまうので、どうしても地元の販売店で買うよりも値段が高くなってしまうんです。実店舗で注文すれば担当者がサイズを測ったりしてくれるのですが、ネットの場合はそれも自分でやらなければならない。おまけに当時は問い合わせへの対応も遅く、届くまでにも時間がかかっていました。要するに『高い、遅い、面倒くさい』上に、(実績もなかったため)胡散臭いサービスだったんです」(辻氏)
ただ全く先が見えない状況だったかというと、そうではなかった。最初の半年間で見つけた“たった1社の顧客”の声が、辻氏の状況を変えていくことになる。
その顧客は福岡にある空港の整備系の会社で、オーダーの内容は「(業務用の)大きなダンボールを1箱だけ、しかも明後日までに届けて欲しい」というものだった。
「当時業務用のダンボールは注文できるロットがだいたい100箱とか1000箱からで、1箱あたり数十円というのが一般的でした。1箱だけとなると、加工賃や送料などを踏まえると安く見積もっても7000円くらいにはなってしまう。難しいだろうなと思いながら、えいやで見積もりを出してみると、その価格で売れちゃったんです」(辻氏)
なぜ7000円でも買ってもらえたのか。1つは納期を間に合わせ、きちんと2日で届けられる状態を作ったこと。もう1つは他では断られるような小ロットの注文に対応できたこと。この2つが大きかったと辻氏は話す。
「どうしてそれまで気づけなかったのかはわからないのですが、結局他の事業者と同じ土俵で戦ってしまっていたんです。それこそ小学生の時の駄菓子屋の経験と同じで、地元の駄菓子屋と同じものを売っていても仕方がない。この時に(他の事業者がやっていない)1箱からでも作ること、納期にこだわって高くても早く届けることを中心にやっていこうと決めました」(辻氏)
成長の要因は「業界で非常識と思われていたことをやり続けた」こと
サービスの軸が明確になると、事業の風向きも変わっていった。少しずつ企業からの問い合わせがくるようになり、顧客の声を参考にしてサービスを改善できるようにもなった。
辻氏によると「小ロットの対応」「既製品の販売」「自動見積もりシステムの導入」の3つは、初期のダンボールワンの成長を支えた取り組みだ。
当時ダンボールは受注生産が主流だったが、ユーザーに聞いてみると必ずしもオーダーメードを求めているわけではなく、「売れているサイズのダンボールが欲しい」というニーズが一定数存在することがわかった。
そこで辻氏が始めたのが、売れ行きの良いサイズのダンボールを大量生産し、既製品として小分けで販売する試みだ。そうすることで、該当するサイズに関しては「大手のメーカーが2万箱で(1箱)20円で売っているものを、200箱で(1箱)13円で売る」といったことができ、価格の面でも価値を訴求できるようになる。
ユーザーが直感的に使えるように細かい工夫も凝らした。たとえば「サイズを測るのが面倒」という声に応えるため、“人がダンボールを抱えた写真”をサイトに掲載し、よりイメージしやすいように変えた。

問い合わせの数が増えてくる中で、対応のスピードやサービスの質を維持できたのは自動見積もりシステムを開発したことも大きい。365日24時間、いつでもインターネット上で見積もりができるようになったことで、オーダーメード品であっても素早く出荷できる体制が整った。
「一度軌道に乗ってからは、売り上げが毎年ほぼ倍々のスピードで成長を続けることができました。その要因は業界で非常識と思われていることや、業界にはないものをどんどん取り入れ続けることができたからだと思っています。もちろんうまくいかないことの方が多くて、実際には10個やれば7個くらいは失敗しました。たとえば海外への引越しを控えている人向けに必要なダンボールをまとめた『海外引っ越しセット』などは、全然売れませんでした(笑)」(辻氏)
ダンボール製造業から受発注プラットフォームへの進化
「半年の売上が7000円」から始まった事業も、試行錯誤を繰り返す中で年商数千万円、数億円といった成長を続けた。2016年にはその功績が認められ、辻氏は代表に抜てきされている。
冒頭で触れた通り2017年には辻氏がMBOすることになったが、その頃には会社の売上が7〜8億円程度まで拡大しており、ECサイトはその8割を占める主力事業に育っていた。
実はその当時「また1から事業の立ち上げにチャレンジしたい」と考えていた辻氏は、債務超過の会社を承継する目的でM&A関連の会社に相談をしていたという。すると、そこで偶然にもダンボールワン自体が売りに出ていることを知り、最終的に自ら経営権を取得することを決めた。これがMBOに至った背景だ。
MBOを実施してからは「(工場の設備投資などではなく)テクノロジーやマーケティングへの投資」に力を入れ、ビジネスモデルを「ダンボール製造業」から「受発注プラットフォーム」へ進化させるための取り組みを始めた。
それまでは100%自社生産で「自分たちが製造したダンボールをECサイトで売る」構造だったが、そこからはかつての能登紙器のような全国の工場との連携を強化。各社の特徴を踏まえつつ、稼働していない空き時間をうまく活用することで、さまざまな商品を安く生産できる仕組みを作った。
現在はタッグを組む工場が100社を超えており、このネットワーク自体がダンボールワンの事業における強みの1つになっている。

ビジネスモデルの改良と並行して、人を大量に採用しなくても継続的な成長を見込める体制を整えるべく業務のIT化や自動化にも取り組んだ。テクノロジーの投資に関しては、サイト上でダンボールのデザインを簡単に変更できるツールの開発など、ユーザーの利便性が高まる仕組み作りも強化した。
辻氏がこだわったのが、「究極的にはパソコンがまともに使えない人であってもデザインができる仕組みを作ること」だ。ツールの開発にあたっては顧客の中でもパソコンを使い慣れていない人のところへ積極的に足を運び、どのような設計であれば使いこなせるか、画面を一緒に確認しながら何度もヒアリングを重ねた。
サービス上で「業界の言葉を極力使わないようにしている」のも、誰でも簡単に使えるようにするため。たとえば「A式のダンボール」といっても、なじみのない人にはそれがどのくらいのサイズを指すのかがわからない。そこでイメージが湧きやすいように「みかん箱タイプ」と表現を変えた。
材質に関しても「K5」や「C5」といった専門用語を使うと混乱を招く原因になるので、「60サイズであればこの材質、80サイズであればこの材質」といったかたちで最適な条件を提示し、必要以上にユーザー側に選ばせない工夫もした。
このようにサービスを磨きながら、広告への投資もそれまでの10倍ほどまで増やした。
エクイティでの調達は一切しなかったにもかかわらず、そこまで攻めの投資ができたのは銀行からの融資で調達していたからだ。その点に関しては「会社としては社歴が長くて金融機関との関係性もあったため、(通常のスタートアップと比べて)デット調達がはるかにやりやすかったことも大きかった」と辻氏は振り返る。
その後も事業の成長は留まることなく、2019年7月期の売上は22億円を超える規模になっていた。
コロナ禍で急成長も組織崩壊の危機、離職率は55%に
順調に事業拡大を続けていたダンボールワンにとって、2020年は大きな変化の年となった。
多大な影響を受けたのが新型コロナウイルスだ。2020年3月からテレビCMを実施して一気にプロモーションを強化したことに加えて、巣篭もり需要の増加でEC市場が伸びていたこともあり、昨年対比でも2倍ほどのペースで事業が成長していたという。
そこでニーズの急増と同時に直面したのが組織崩壊の危機だ。
「コロナの影響で問い合わせが急激に増える一方で、人手不足で対応が間に合わない。そんな状態が続いてメンバーたちも疲弊してしまい、ピーク時には離職率が55%ほどになってしまっていたんです。もともとトップダウンで、あらゆることを僕が決めて指示をしていくようなかたちで経営をしていました。それが急激に需要が増えた時に組織として機能しなくなり、崩壊してしまったんです」(辻氏)
この困難をどうすれば乗り越えられるのか。辻氏が頭を悩ませていた時、偶然にもラクスル取締役COOの福島広造氏から連絡があったのだという。
当時ラクスルではさらなる事業成長に向けて、紙への印刷から「オフィス・産業資材への印刷」へと領域を拡張させる構想を練っていた。そのためにパートナーとなる出資先候補を数社リストアップし、最初にコンタクトをとったのがダンボールワンだった。
「カスタムECの領域において、景気の停滞やコロナの影響があったとしても顧客から使い続けてもらえる『エッセンシャルサービス』とはどんなものなのかをずっと考えていました。その中で梱包材の領域はEコマースが栄えるほど広がっていく市場であり、これからEコマースの流れが加速していくことを考えると、景気がどうなろうとも必ず使い続けられるものだと思ったんです」(福島氏)
もともとダンボールワンがラクスルのテレビCMサービス「ノバセル」を活用したことがあったため会社どうしの接点はあったが、福島氏から連絡をしたのは2020年の8月が最初だったという。
「Zoomで1時間半ほど話をしたのですが、辻さんがラクスルのことを『社員よりも詳しいんじゃないか』というくらい初期の頃から良く知ってくれていて。事業の話を聞くと、ファブレス型のシェアリングプラットフォームを作り、しっかりとマーケティングに投資しながら伸ばしていくというビジネスモデルも完全に一緒だったんです」
「お互いにシェアリングプラットフォームという考え方がそこまでメジャーではなかった時から挑戦を始めて、別々の業界で同じようなことをやり続けながらシェアを高めていった。ビジョンやミッションも方向性が一致していて、生き別れの兄弟に出会えたかのような衝撃でした」(福島氏)
一方の辻氏も、Zoomで面談をした時から「ラクスルと一緒にやることでさらに成長できるのではないかと確信した」と振り返る。
「新しい事業を作ることは得意だったのですが、既存の事業を50億円、100億円と成長させていく上では今のままではダメなんだと感じました。福島さんと話をしていて、そのためには組織や事業計画、ガバナンスなどを含めてしっかりと事業化することが必要だと痛感したんです」
「僕自身、100億円規模まではなんとなくイメージができていたのですが、その先で頭打ちするかもしれないという危機感も持っていました。ラクスルもかつて組織崩壊に近い状態を経験していたことを聞いたり、事業の成長戦略などを相談したりする中で、一緒にやるべきだなという結論に至りました」(辻氏)
Zoom面談の2日後には福島氏が金沢にあるダンボールワンの本社を訪問し、出資や出資後の組織体制などについて議論を交わした。そこから正式に資本提携に向けた協議を進めていったが、実は2020年12月の資本参加の発表に先がけてラクスルからダンボールワンへ組織再編のキーマンとなる人材を送り込んでいたという。
「方向性としては完全に一緒になっていくことを目指しながらも、まずは辻さんの抱えている悩みを解決するために我々がしっかりとバリューを出せるのかに取り組んだのが最初のフェーズ。正式にディールが決まる前に、担当者がダンボールワンに参画していました。そこから組織の立て直しや事業開発を一緒に進めていく中で、辻さんがバリューを感じてくださっていたため、次のステップとして取締役を派遣して経営自体を一緒にやっていくようにしました」(福島氏)

資本参加の結果として訪れた変化
ラクスルとタッグを組むことで何が変わったのか。辻氏は「人とビジョンと知見」の面で大きな変化があったという。
「自分がずっと悩んできた組織の課題が2カ月ほどで掌握されて、離職率も数パーセントまで改善されました。グループ会社化や子会社化となれば働きづらくなる可能性もあるのに、自分たちの場合は完全に逆で、社員に聞いても1人1人にオーナーシップを持たせてくれるようになったので働きやすくなったと言うんです」(辻氏)
従来は、社員にとっては何をすれば評価されるのかがあいまいだったほか、ビジョンについても明確に言語化されたものがなく、「何のために事業をやっているのか」「何を実現させたいのか」がブレることもあった。ラクスルグループに参画することで「ラクスルのビジョンやミッションを掲げることができ、目指すべき方向が明確になったのが会社としては1番良かったこと」だと辻氏は話す。
事業面においては共通点が多かったこともあり、顧客分析の考え方やマーケティング施策など細かい部分も含めて“ラクスルが先輩として培ってきた知見”を提供してもらえたことが大きかったという。
一方のラクスルとしてはどうか。福島氏はダンボールワンが加わることで「領域のリーディングカンパニーとともにEC市場自体を広げる取り組みができたことの意義は大きい」として「事業領域を広げていく上での武器が増えた」と話す。
「50億円超の顧客基盤が横についたことで、ラクスルというブランドが(チラシや名刺だけでなく)いろいろなものを扱っていくことを証明できたのではないかとも思っています。ラクスルブランドとして、BtoBのカスタムECを全部やっていく総合的なブランドとしての大きな一歩目になったのではないかなと」(福島氏)

会社の成長を考えると「代表交代がベストだと考えた」
冒頭でも触れた通り2022年8月1日付で辻氏は代表を退任し、1年前からダンボールワンの取締役副社長として事業の成長を支えてきた渡邊建氏にバトンタッチをした。渡邊氏はラクスルで執行役員印刷事業部長を務め、同事業の売上高が100億円から200億円規模まで成長するのを支えた人物だ。
辻氏が2005年に能登紙器でECサイトを立ち上げてから17年。会社や事業に対する思い入れは強いが「ダンボールワンの成長を考えると、この選択がベストだと思えた」という。
「多少の気遣いもあったとは思いますが、(ラクスル代表取締役の)松本さんや福島さんたちからは経営者としてこのまま挑戦して欲しいと言っていただき、僕自身も最初は続けてみようかなとも思っていたんです。ただ、実際にマネジメント層を中心にいろいろな人に入っていただき、仕事をどんどん引き継いだことで会社が一気に伸びた。これからのダンボールワンのことを考えると、CEOに関しても事業家として事業をしっかり伸ばせる人にバトンタッチした方が良いと考えるようになりました」
「その点(後任の)渡邊は、ラクスルの印刷事業の成長に大きく貢献しており、まさに今のダンボールワンのフェーズからその先を作ってきた人間です。実際に副社長に就任してからも活躍してくれていて、経営者として素晴らしい人なので、安心して任せられる、彼に任せたいと思いました」(辻氏)

辻氏によるとダンボールワンは現時点でダンボールEC市場において50%以上のシェアを取れているものの、そもそもダンボール市場はまだまだEC化が進んでいない領域。市場全体の規模で見ると、同社の売上は1%にも満たない。
そのことを踏まえても「ポテンシャルが大きい事業であり、現時点ではインパクトも大きくないし、世の中を変えてもいない」(辻氏)。事業家へ代表を引き継ぐことで、世の中を変えていくような事業へと成長できる。そんな思いが背景にあったという。
辻氏自身はダンボールワンの経営を退くが、起業家としての活動はこれからも続ける計画。すでに複数の事業案を検討しているそうで「梱包材や印刷とはまた別の領域で新しい挑戦をしたい」(辻氏)という。