
- 教師を目指して上京
- ローンを組んで購入した「Macintosh Plus」
- アップルオタクが集う会社員に
- 仕事は「宝探し」
- 38歳の「クレイジー」な決断
- 他メーカーに先駆けてUSBを電源に活用
- 社員全員からアイデアを募集
- ブレーキを踏んでいた足を外す
- アイデアをすぐ形にするために
- モデルチェンジを繰り返した「ネッククーラー」
- 「ニーズの広さと深さ」とは?
シリーズ累計販売台数が100万個を超えた、首にかけるクーラー「ネッククーラー」。発売1カ月で1万1000台が売れたひとり用の着るこたつ「こたんぽ」。販売台数が20万個に迫る、ご飯を炊いたらそのまま食べられる「おひとりさま用超高速弁当箱炊飯器」。

ほかにも工事不要、水道いらずのタンク式食器洗い乾燥機 「ラクア」、「洗えるヒーターベスト」など、ニッチのなかのニッチ、ウルトラニッチな家電製品でヒットを飛ばし続けている家電メーカーが、2003年創業のサンコーだ。

同社は社員45人にして、年商約44億円。日本には上場企業が3863社(
3月17日時点)あるが、東洋経済オンラインの記事「『1人当たり売上高をバンバン稼ぐ』トップ500社」(2022年7月21日公開)によると、ひとり当たりの売上高で1億円を超える上場企業は387社しかない。上場企業の上位10%に迫る驚異的な収益力を誇るサンコーを率いるのが、山光博康だ。
小学生の頃は「成績は常に最下位」で、大学生になったら「アップルオタク」。ウルトラニッチなモノづくりで家電業界に旋風を巻き起こす山光の原点、そしてアイデアをヒットに変える目利き力に迫る。
教師を目指して上京
山光は1965年、広島県の呉市で生まれた。アニメ映画『この世界の片隅に』で描かれたことでも知られる呉市は港町のイメージがあるが、周囲を山に囲まれている。山光が育ったのはその山を越えたところにある小さな集落で、少年時代は「地元の川で魚獲り」が日課だった。
通っていた小学校は1学年1クラスで、クラスメイトは30人ほど。山光は勉強に興味がなく、ほとんど授業を聞かずに過ごした。
「先生にはしょっちゅう怒られていました。勉強が嫌いというより、よくわかんないから興味がない。成績は常に最下位でしたね(笑)」

中学生になると、「さすがにこれはまずい」という親の計らいで近所のお姉さんから勉強を教えてもらうようになった。それで少し成績が上がり、高校に進学。バスで1時間かけて通学しながら、将来についてぼんやりと「学校の先生かな」と考えるようになった。
恩師や理想の教師を目指して、というわけではなく、自分の周りに親、親せき、近所の農家、教師しか大人がいない環境で、なんとなくの思い付きだった。
教師になるなら、大学に進学するしかない。現役受験に失敗した後、「東京は怖い」と横浜でひとり暮らしをしながら浪人生活を送った。1年後、駒沢大学の歴史学科に入学。「中学校の社会科の先生になろう」と考えてのことだった。
ローンを組んで購入した「Macintosh Plus」
運命を変える出会いは、大学に入学して間もない1984年6月に訪れた。たまたま手に取ったモノ系雑誌に、アップルコンピューターのマッキントッシュを紹介する記事が掲載されていたのだ。
山光は、それまでパソコンに関心を持ったことがなかった。しかし、アップル特有のフォントや画面表示と印刷が一致する「WYSIWYG(What You See is What You Get)」の実現、アウトラインプロセッサ(文書作成のソフトウェア)の導入などについて書かれた記事を読んでなぜか胸が騒いだ。
当時、マッキントッシュは日本語のOSがなかったため、突き動かされるように東京・秋葉原に向かい、NECのマイコン「PC-6601」を購入した。ところが満足できる性能を備えていなかったため、実家からの仕送りを節約してお金を貯め、シャープの「Super MZ(MZ-2500)」に買い替えた。それもやはり「おもちゃ感」が強い。
遠回りして「結局、マックしかないんだな……」と気づいた1986年、アップルが日本語版OS「漢字Talk」をインストールできる「Macintosh Plus」をリリースすると知って、胸が躍った。
「『これ欲しい!』と思ったんですけど、64万8000円もしたんですよ。それでさすがにアルバイトをしなきゃダメだと思って、缶に印刷する工場で夜勤を始めました。ガシャンガシャンってすごくうるさいから、時給が一番高かったんです。それで毎日働いて頭金を貯めて、ローンを組んで購入しました」
アップルオタクが集う会社員に
山光は「Macintosh Plus」に夢中になり、モデムが「ピーッ、ガーッ」となる初期のパソコン通信で情報を集め、昼夜を問わずいじり倒した。その勢いで、100万円近くしたアップルのレーザープリンター「LaserWriter」もローンで手に入れた。
「レーザープリンターって、自分で印刷物を作れるってことじゃないですか。それまで印刷物は素人が関与できないような世界だったのに、パーソナルなかたちで完結できるということですよね。それは自分にとってインターネットが世に出る前と出た後のインパクトに近しい感覚だったんです」
学生なのでたいした使い道はなく、マッキントッシュで書いたレポートをプリントアウトして提出する程度だった。しかしアップル製品について「もっと知りたい」という知識欲は留まることを知らず、秋葉原にあったアップル製品専門のショップ「イケショップ」でアルバイトを始めた。大学3年生の山光はほとんど大学に行かず、当時住んでいた三軒茶屋から週5日、秋葉原に通った。
当時のイケショップで働いている人の多くはアップルオタクで、もちろん山光もそう。アップルの熱狂的なファンにとって、仕事をしながら最新機器に触れられる職場はワンダーランドだった。細かな説明は省くが、「サンダースキャン」「ヘッドマウス」などユニークなマックの周辺機器を扱っており、社割で購入できたのだ。
ギリギリで留年を回避した山光は、就職活動をすることもなく、1988年、イケショップの社員になった。「あいさつに行く」と上京した両親は、社長に会った後、「頑張って」と言って帰っていった。
仕事は「宝探し」
イケショップは社員10人ほどの小さな会社だったが、日本にはすでに多くのアップルファンがいて、「売れる時はめちゃくちゃ売れた」という。そこでショップ店員として働いていた山光は3年目、印刷会社に転職した。ところが、数カ月後にはイケショップに復帰した。
「働いているうちに印刷の知識がついて、これからDTP(Desk Top Publishing/パソコンで印刷物のデータを作成し、プリンターで出力すること)が主流になると思ったんです。それでDTPを取り入れた印刷会社に転職したのですが、朝10時から夜中まで働き詰めの職場で、さすがにこれはつらいなと思って戻らせてもらいました」
イケショップは、もともと社長が住んでいた一軒家を社員寮にして共同生活を送っているようなアットホームな雰囲気の会社だったため、一度退職した山光も温かく迎え入れられた。
その後、社長は「DTPに力を入れよう」という山光の提案を受け入れ、新たな部門を設立。山光はそこで、DTPを使って海外製品のマニュアルを作る業務に就いた。
当時のマック周辺機器は海外製なので、イケショップはそれまで商社を通して商品を仕入れていた。それがある時、「自社で輸入販売しよう」ということになり、輸入商社を立ち上げた。その担当者に抜てきされたのが、山光だった。
その頃はまだネットで買い物という時代ではない。サンフランシスコで開催されていたアップル製品や周辺機器の展示会「マックワールド」などに出張し、売れそうな商品を発掘して買い付ける。それは山光にとって仕事というよりも「宝探し」に近い感覚だったと振り返る。
「面白い商品を探してきて、会社に提案して了解を得られれば、会社のお金で買い付ける。それが売れたら自分の成果になって、お給料が上がっていく。これはもう宝探しみたいなもんじゃないですか。そういうワクワクするような気持ちで、いいものないかなって探し回っていました」

38歳の「クレイジー」な決断
この宝探しで問われるのは、直感ではなく目利き力だ。アップルオタクを自認する自分が「欲しい!」と思うのは当然として、それだけでは仕入れの決定打にはならない。
「あくまでも自分が最初の基点にはなるんですけど、それだけじゃ汎用性が高くない。大切なのは、どのぐらいニーズが広いか、深いか。それを想像しながらひとつひとつの商品を見て回ります。それでピンとくるものがあれば使ってみて、確かにターゲット層に刺さりそうだと思ったら調達するという流れになります」
ニーズの広さと深さの判断は今も山光の目利き力の要なので、詳しくは後述しよう。展示会で山光がいくら「これは売れる!」と確信しても、社長を納得させなくてはならない。社長に提案した時、「そんなの高すぎて売れないよ」と却下されそうになったものの、なんとか説得して仕入れたのが、CDを読み込んだり、CDにさまざまなデータを保存できるiMac用のCD-Rドライブだった。
「3、4万円したんで、その頃の感覚ではすごく高かったと思います。でも音楽や画像を取り込んで自分のCDを作りたいという需要は確実にあって、それはこのくらいの費用を出しても買ってもらえるという自信がありました。これが本当に大ヒットしたんですよ。マーケティングの経験として、すごくよかったなと思いますね」
イケショップの輸入商社で10年ほどマーケティング感覚と目利き力を磨いた山光は2003年、38歳の時に独立してサンコーを立ち上げた。

「会社にニッチな面白いことをやりましょうと提案しても、なかなかOKが出なくて。僕は営業以外ぜんぶ経験していて、ウェブページも作れるし、ショッピングカートのプログラムも書けたから、それなら自分でやろうかなと。今考えるとクレイジーですね(笑)。まだ自分の子どもも小さいのに、よくそういう決断をするなと思います。その頃も会社は家族的なところだったので、しっかりやれよと気持ちよく見送ってもらいました」
他メーカーに先駆けてUSBを電源に活用
山光は自ら新たに見出した台湾の会社から商品を輸入して、ECショップを開いた。起業したばかりで資金に限りがあったため、腕時計型のMP3プレイヤー、フラッシュメモリー、液晶モニターのアームなど、日本でほぼ出回っておらずパーソナルな用途で尖った商品に絞り、10種類だけ仕入れた。
前職で付き合いのあった雑誌の編集部に連絡をすると「これは面白い!」と喜ばれ、積極的に誌面で取り上げてくれた。その効果もあり、10種類の商品すべてがすこぶる売れた。
その後もスマッシュヒットを連発し、自分の目利き力とマーケティング感覚に自信を深めた山光は3年目、オリジナル商品の開発に動き出す。
「当時まだUSBはデータ通信用のインターフェースという認識が主流でした。でもUSBは5ボルトの電気を通せるから、電源として使ったらどうかという意見が社内で出たんです。乾電池1本は1.5ボルトなので、3本以内で動く製品ならUSBで動かせるだろうし、コンセントに刺さなくていいなんて便利だし面白いよね、やろうやろう!と盛り上がりました」
最初に考案したのは、電動の爪やすり。社内に電化製品を作るノウハウはなかったので、中国からの留学生に通訳を頼み、中国の工場に発注した。それほど難しい構造のものではなかったので、3、4カ月もすると完成した。
山光いわく、「日本でUSBを電源に使う商品を出したのは、サンコーが初めてだと思う」。そのため「電池の入れ替え不要! USBで稼働する爪やすり」と売り出すとその目新しさと利便性にメディアが食いつき、よく売れた。さらに山光のアイデアから、ヒット商品も生まれた。
「僕はすごく寒がりで、暖房が効いている部屋でも手が冷たくてしょうがない。それで、手の甲をカバーして、指先は自由に動く『USBあったか手袋』を作りました。社内では反対意見が多かったんですけど、世の中の2割の人が冷え性だとして、2割のうちの数%の人が買ってくれたら膨大な数になります。実際にすごく売れました」
社員全員からアイデアを募集
当初、山光が中心になってオリジナル商品のアイデアを出していた。しかし、ひとりの発想力に限界を感じ、創業5、6年目から社員全員に企画を求めるようになった。本社オフィスのほか、秋葉原に小さなお店も出していたため、全員からアイデアを集めるために社内のネット掲示板に投稿するかたちにした。
それでも最初はなかなか投稿が集まらなかったため、「もっと投稿してほしい」と訴えるだけではなく、褒賞を設けた。自社企画の商品として採用されたらA賞1万円、海外からの調達品として採用されたらB賞5000円、いいアイデアならC賞500円。お小遣い程度だが、実際に商品がヒットすれば人事評価に反映される。アイデアを出しやすい雰囲気作りにも気を遣った。
「面白くて役に立つ商品を世の中に広めてハッピーにしたいという想いはみんな同じなので、自由活達にやりとりできる環境が重要です。そのため、アイデアに対してNGを出す時は理由を説明するし、僕は自分が正解だとまったく思っていないので、反論もどんどんしてもらいたいと常に伝えています。例えば僕が過去の経験から判断してNGを出しても、いやいや、社長はわかってない、今はこういう世の中だからこの商品が売れるんだってロジカルに反論があって僕が納得すれば、GOサインを出しますよ」

こういったハード、ソフトの仕組みを取り入れることで、投稿されるアイデア数が増えるだけでなく、社内のコミュニケーションも活発になった。それと比例するように売り上げも伸び、創業10年目には約9億円に達した。
ブレーキを踏んでいた足を外す
右肩上がりの成長が伸び悩むようになったのは、スマホが日常の中で使われることが当たり前になり、パソコンが以前ほど売れなくなった2015年頃。時流に合わせてスマホの周辺機器も開発し、輸入販売も手掛けていたが、パソコンに比べるとニーズが小さく、売れるのはバッテリーやケーブルばかりになっていた。
スマホとパソコン、両方の周辺機器の市場縮小は、サンコーにとって逆風だ。その暗雲を振り払ったのは、ひとつの商品だった。
サンコーは2015年12月、台湾から輸入したハンガー型の乾燥機を発売した。これは、コンセントにつないだハンガーの裏側から温風が出て、洗濯物が早く乾くというアイデア家電だ。想定通りに売れたのだが、山光はこのハンガーにシャツをかけた時、袖や裾など服の端の渇きが悪いことが気になっていた。どうしたものかと考えていたある日、ふと思いついた。
「どうせだったら、乾いたあとにアイロンもかかればいいのにな」
頭のなかでは、服がエアバッグでパンパンに膨らんでいる映像が浮かんでいた。「これはうまくいきそうだ」と直感した山光は、取引先の中国の工場に連絡。試作品を作ってもらって日本でテストしたところ、期待通りの結果が出た。

そうして2017年6月に発売されたのが、『シワを伸ばす乾燥機「アイロンいら~ず」』。乾燥機にヒト型の袋をかぶせて空気を送り込む。パンパンに膨らんだ袋に洗濯したばかりの服を着せると、しわが伸びた状態で乾く。わかりやすいネーミングと機能性、そしてなによりユニークな存在感で話題になり、サンコーが初めて開発した家電は思いのほか売れた。この時、山光は腹をくくった。
「実は、社内では数年前から家電をやりましょうという意見が出ていたんです。でも、日本って本当に家電メーカーがすごく多いし、そこに対抗するのは難しいんじゃないかなって僕がブレーキを踏んでいました。アイロンいら~ずもニッチ過ぎてダメかと思ったんですけど、マーケットが大きい分、予想以上に売れた。それなら、もっとラインナップを増やしていけば、それが大きな柱になるという手応えを得たんです」
アイデアをすぐ形にするために
家電の市場規模は、7兆円(2022年)。スマホとパソコンの周辺機器とは桁が違う。サンコーは、大手メーカーとはまったく異なる発想で家電業界に参入した。目指したのは、「困りごとの解決」。例えば、「乾燥機を使えば早く乾くが服にシワが残る」という課題を解決したのが前述の「アイロンいら~ず」で、現在第3世代まで発売されている。
すでに10年以上続いていた全社員による「アイデア出し」は、社員が日常の中で感じた不便さや不快さを解決する「あったらいいな」を提案するものが多かったから、家電開発の強力な源泉となった。社員が30人いれば、1週間で最低30個、1カ月で120個のアイデアが集まる。45人いる現在は1カ月で180個、1年で2160個だ。
これだけの数のアイデアが身近にあるのに、毎回中国に試作を依頼していたら、商品開発のサイクルが遅くなる。「アイロンいら~ず」をリリースした2017年、山光はDMMが秋葉原で運営していたモノづくりのためのコワーキングスペース「DMM.make AKIBA」のスペースを借り、3人のスタッフを常駐させてプロトタイプを作ることにした。

「その頃、僕が社員投稿用の掲示板をチェックしていたので、いいと思ったアイデアを少し煮詰めた後、ちょっと作ってみてと投げて、すぐに3人に取り掛かってもらいました。それができると、僕らがチェックするという流れです。専任の試作スタッフを置いたことで、商品開発の効率がすごく上がったと思います」
家電に進出したサンコーは、月に2アイテムのペースで商品をリリースした。それを可能にしたのが、このプロトタイプ製作チームだ。
すぐにプロトタイプを作れるようになったことは、営業でも有利に働いた。完成品ができる前にバイヤーと話をする時、それまでは書類を持参してコンセプトを口頭で説明するしかなかったが、プロトタイプを見せるとイメージがしやすくなり、明らかに受注数が変わったという。
現在は社内にプロトタイプ製作室を置いていて、2名の専従スタッフが働いている。アップルも社内に工作室があり、すぐにプロトタイプを作れることで有名だ。規模の違いはあれど、元アップルオタクの山光も同様の体制を築き上げた。
モデルチェンジを繰り返した「ネッククーラー」
2017年に家電に進出して以降、サンコーは「ユニーク家電」「オモシロ家電」「アイデア家電」のメーカーとして知名度を上げていった。サンコー流モノづくりを象徴するのは、シリーズ累計販売台数が100万個を超えた大ヒット商品、首にかけるクーラー「ネッククーラー」。実はこの商品、最初から売れたわけではない。
現状モデルの先駆けは、2015年にパソコン周辺機器として発売したUSBひんやりネッククーラー「こりゃひえ~る」。最初に2000個作ってしばらく後に完売したが、驚くような売れ行きではなかった。ただ、「ニーズがあるのは間違いない」と判断し、デザインや機能性をリニューアルして販売したところ、「まあまあ売れた」。
2019年、さらにコンパクトにしたり、厚みを薄くするなどして改良した「ネッククーラーmini」は1万6000個ほど売れた。「じゃあ次はもっと売れるはずだ」と翌年、静音性を高めた「ネッククーラーNeo」のプロトタイプを持って営業をかけたところバイヤーからの注文が殺到し、23万個売れた。そして2021年に発売したコードレスで使える「ネッククーラーEvo」は60万台超が売れるヒットを記録。

そう、「ネッククーラー」は「売れるはず」という見立てのもとにモデルチェンジを繰り返した結果、大ヒットした。サンコーでは、そういう商品が少なくない。その見立てのカギを握るのが、山光が言う「ニーズの広さと深さ」だ。
「すごくニッチだとしても、この商品があったらものすごく便利だっていうものは売れます。ニーズが狭くても、深く刺さればいいということです。逆に、ニーズが広ければ深みがなくても売れます。深いのか、浅いのかを常に見るようにすると、外れが少ないんじゃないかな。最初にあまり売れなくても、ニーズの手応えを感じていたら、改善して売り続けるのも重要です」
「ニーズの広さと深さ」とは?
例えばサンコーの商品で、「狭くて深い」ニーズを捉えたのが「エレクトリックナイフ」。これはケーキやパン、ローストビーフなどの断面が美しく切れる電動包丁で、山光は最初、商品化する必要性を理解できなかった。しかし社員から「普通の包丁だと潰れてしまう。断面が汚くなって写真映えせず、せっかく作ったものが台無しになる」という意見を聞いて商品化したところ、「まあまあ売れた」。
ニーズが「広くて浅い」のは、「おひとりさま用超高速弁当箱炊飯器」。これは1合のお米が14分で炊けて、しかもそのまま食べられる弁当箱型の炊飯器で、20万個弱売れている。日本人の家庭なら炊飯器は一家に一台はあると考えるとニーズは「浅い」が、ひとり暮らしで温かいご飯をパッと食べられて、片付けも簡単というニーズは「広い」というわけだ。
そして、ニーズが「広くて深い」のがネッククーラー。夏は暑いから「広い」。そして特に夏、外で仕事をする人にとっては手放せないから「深い」。どちらも兼ね備えると、ヒットの可能性は高まる。
もちろん、常に予想が当たるわけではない。しかし、「当てが外れてまったく売れなかった商品はありますか?」という問いに山光が挙げた「超音波クリーナー」ですら、「ほとんど売れて、ちゃんと採算は取れています」と言っていたから、赤字になった商品はゼロということだろう。
冒頭に記したように、社員45名にして年商約44億円は、上場企業の上位10%に迫る収益力。イケショップから鍛えたマーケティング感覚と目利き力は、今もサンコーを支えているのだ。
2022年11月、サンコーは毛織物製造大手、日本毛織(ニッケ)の傘下に入った。この話が来る前にIPOの準備を進めていたそうで、「ものすごく葛藤した」そうだが、今後、資金力や人員を強化して、さらに進化するために決断した。
ニッケは子会社を通じてECに注力しており、山光はそのノウハウを活用しての海外展開を視野に捉える。海外ではすぐに類似品が出回るため、いかに権利を守りながら攻め込むかが問われる。その際にニッケの知見も支えになるはずだ。
スティーブ・ジョブズはかつてこう言った。
「人はたいてい、自分が何を望んでいるのか、目の前に差し出されるまでわからない」
日本人の埋もれたニーズを次々と掘り起こしてきた山光が、世界で勝負を仕掛ける。