離れた空間を等身大で接続する「tonari」
離れた空間を等身大で接続する「tonari」 画像提供:tonari
  • 「同じ空間を共有」する体験を低遅延・高フレーム数で実現
  • Googleでの経験から空間を“ハック”するプロジェクトが誕生
  • 録画・録音データの加工から伝送データの構造までゼロから開発
  • ゆくゆくは孫と祖父母のコミュニケーションに使えるような製品に

東京・渋谷区のスタイリッシュなオフィス。取材に訪れるとすぐ“壁の向こうの和室”から「こんにちは、ようこそ!」と声がかかった。遠隔地同士を、空間が隣接しているかのようにつなぐシステム「tonari」を通して、約50km離れた神奈川県の葉山から挨拶されたのだ。

天井から床までを占める大きなスクリーンには、システムを開発するスタートアップ・tonariの葉山研究所にある和室が奥の間まで広々と映っている。人物も等身大で、手を伸ばせば名刺交換できそうな雰囲気さえある。

一見すると大型の「Zoom」のような遠隔コミュニケーションシステムのtonariだが、空間がつながっている感覚が得られるのは、画面の大きさだけではなく、遅延の少なさによるところが大きい。

「同じ空間を共有」する体験を低遅延・高フレーム数で実現

tonariの共同創業者で代表取締役を務めるエンジニアの川口良氏によれば、人間が会話の遅延でイライラしない限界は、150ミリ秒以下だという。ちなみにZoomなどのビデオ会議システムでは、だいたい200ミリ秒以上の遅延が起きるのが普通だそうだ。

tonariは遅延120ミリ秒以下を実現。フレームレートも60fps(コマ/秒)で、滑らかな動きがスクリーン上に再現される。ウェブ会議システムを使っていると、しばしば発言が重なり、譲り合う羽目に陥るが、tonariで譲り合いが起こるとすれば“本当に同時に話し始めてしまったとき”だけだろう。試しにスクリーン越しでジャンケンをしてみたが、互いに「後出し」にならずに勝敗はすんなり決まった。

tonariのもたらす“隣接感”はレイテンシーやフレームレートなど、システムのスペック的な部分だけではなく、ハードウェアの設置方法など、空間上のさまざまな工夫によってもたらされている。

明るいオフィスでも使えるソフトPVC製のグレーのスクリーンには、ほぼ目線の高さに1点、目立たないように穴が開けてある。カメラはこのピンホールの奥に設置されている。スクリーンの向こうの人物と目線が合う体験は、このカメラの設置位置によって実現している。

カメラが撮影した映像は、平らな面で室内が自然に見えるように画像処理され、プロジェクターから投影される。画像処理が行われるので、プロジェクターのハードウェアはスクリーンの中心でなく、目立たない壁際に設置することができる。

集音マイクは天井から下げられた複数のライトに付いている。スピーカーはスクリーンの左右に据え付けられ、スクリーンの前に立ったときに向こうで収録された音(声)が自然に聞こえるようになっている。照明も環境光や時間帯によって調光されており、画面で見たときに顔の明るさと背景の光の加減が同じぐらいになるように調整されている。

緊張感や臨場感を構成する要素が何なのかは、引き続きtonariの開発チームで調査が行われている。映像、サイズ感などさまざまなエレメントが関係するので「使ってみないと分からないこともある」とのことだが、分かっていることのひとつに「人間は自分の顔に敏感なので、画面に自分が映っていると気が取られる」ということがあるそうだ。そこでtonariでは一般的なウェブ会議のツールとは異なり、目の前のスクリーンには自分は映らないようになっている。またプレゼンテーションなどの資料共有用のモニターは、あえてスクリーンの脇に別に設置されている。

tonariの渋谷オフィスと葉山研究所とは、常にtonariがオンの状態になっている。スクリーンの前で打ち合わせをしていても、相手の後ろで誰かが入室したことが分かるので、スクリーン越しに「おかえり」「ただいま」のやり取りが発生することもある。こうした体験によって、より“同じ空間でつながっている感覚”になるそうだ。

Googleでの経験から空間を“ハック”するプロジェクトが誕生

日本語の「隣」をプロダクト名に採用するtonariは、元Googleのプロダクトマネジャー、タージ・キャンベル氏とエンジニアの川口良氏の両名を代表として、2017年に創業した“ソーシャルベンチャー”だ。

tonari代表取締役/CEO タージ・キャンベル氏
tonari代表取締役/CEO タージ・キャンベル氏 写真提供:tonari

キャンベル氏は2007年にカリフォルニアでGoogleに入社し、2013年に来日。2010年からGoogle Japanに参画していた川口氏とともに「Google マップ」モバイル版などの開発に携わった。

Googleは言わずと知れたグローバルIT企業だ。Google マップチームも日本と本社のある米・カリフォルニア州のマウンテンビュー、ニューヨーク、ロンドン、シドニー、スイスなど、世界中に分散していた。「離れた場所を常時接続でつなげて、2つのチームが一緒に働ける環境をつくる試みは何度もありました」と川口氏は言う。

「四半期に1度はマウンテンビューで会おうということになっていました。それがないとチームがまとまらず、マネジャー間の信頼が薄れるからです。違うオフィスで同じようなプロジェクトが立ち上がってバッティングするようなことは何度も起きていました。しかし、そういう問題を解決するのに、飛行機に毎度乗って移動することには、そろそろ飽きていたのです」(川口氏)

だが、Google ハングアウトをつなげっ放しにしたり、それぞれのオフィスのハドルスペース(軽い打ち合わせ用のスペース)を常時接続したりといろいろと試したが、問題は解決しなかったという。

キャンベル氏もキャンベル氏で、仕事における心理的・物理的距離を縮めることのほか、自分が帰属するコミュニティや家族とのつながりを維持するためにも、常に世界中を移動する生活を送っていた。

3年半、同じチームで働いた後、キャンベル氏は「新しいことを始めないか」と川口氏を誘った。2人が参加したクリエイティブコミュニティ「Straylight(ストレイライト)」でのエンジニア、クリエイターとの出会いも彼らに影響を与えた。

tonari代表取締役/CTO 川口良氏
tonari代表取締役/CTO 川口良氏 写真提供:tonari

「私には3人の子どもがいるのですが、子どもたちと東京に住み続けるのはサステナブルではないなと、ちょうど思い始めた頃でもありました。自分がつながっていたい、エンジニアやクリエイターのプロフェッショナルコミュニティは東京にあるけれども、いるべき場所は海外や郊外にある。そこで、どうやってこのネットワークや人とのつながりを維持するか、真剣に考えるようになりました」(川口氏)

2017年4月、キャンベル氏からtonariの原型となるアイデアが出る。川口氏が解きたい問題とキャンベル氏が解きたい問題がちょうど合致したことから、プロジェクトがスタートした。

「Straylightで私たちは、さまざまな分野のエンジニア、クリエイターと協力して、新しい空間づくり、あるいは空間の“ハック”を試みました」(キャンベル氏)

録画・録音データの加工から伝送データの構造までゼロから開発

2017年12月、プロジェクトは日本財団のソーシャルイノベーションアワード2017で優秀賞を受賞。これにより、日本財団から年間5000万円の助成金を2018年度から3年間にわたって受けることになり、プロダクトの開発が本格化した。

助成金を受け、プロジェクト初期の母体となったのは非営利団体の一般社団法人tonariだ。「資金のある企業だけではなく、図書館や医療機関、終末医療の施設など、空間や人の距離を縮めるプロダクトが社会インフラとしてどこにでもあるような世界になったら、世の中がどう変わるのかを真剣に考えたい」(川口氏)として、株式会社に先駆けて立ち上げられた。

日本財団によるプロジェクト採択後の6カ月は、既存のテクノロジーを使ってプロトタイプづくりが試みられた。まずはオープンソースのテレビ会議システムをtonariに組み込もうとしたが、「解像度、fps、遅延など、望んでいたスペックに到達せず、安定したやり取りは実現できませんでした」と川口氏は振り返る。

そこで彼らは、ハードウェアの構成・特性を把握し、最新のGPUとアーキテクチャを理解しながら、新しいプログラミング言語を用いて、ゼロからシステムをつくることにした。結果として、映像・音声を録画・録音し、加工して、全体をフルスタックで送るプログラムを、伝送データのパッケージ構造も含めて、初めから用意することになった。

「すべて我々が開発したシステムなので、音声が届くタイミングを変えたりデータ圧縮の度合いを変えたり、色の変更やカメラのゆがみの修整も含めて、すべてに自分たちで手が届きます。空間も含めてトータルでデザインして届ける製品なので、細かいチューニングはとても大切です。ゼロから開発したことで、それができる環境が整いました」(川口氏)

一方、ハードウェアは特定のものに依存することなく「プロジェクターなど、ハードの進化にtonariが乗っかっていけることをイメージしてつくっています」と川口氏。60fps、120ミリ秒以下の遅延、4Kに近い解像度を実現し、「最初の製品版としては満足のいく出来になりました」と語る。

tonariのメンバー
取材に応じたtonariのメンバー。渋谷のオフィスにて

こうしてプロダクトの研究・開発が進む中で、社会課題の理解・解決に加えて、製品化を加速させ、より広くtonariの流通・導入を促進するために、投資家やメーカーとの連携が検討されるようになった。

「非営利で社会課題に向き合う部分と、営利目的で開発するところのバランスを取る上で、どうかかわるのが正しいかについてはチームでも激論になりました」(川口氏)

そして2018年6月、一般社団法人は維持したまま、新たに株式会社を設立することになる。

「ソーシャルベンチャーとしてのtonari(一般社団法人)は、10年、20年といった、より長いタームでのミッションを実現するためのものです。一方、株式会社はSaaS企業として、短期的に利益を上げて事業を発展することを目的としています」(キャンベル氏)

投資家やベンチャーキャピタルからの投資の受け皿、知的財産の管理などは株式会社が担い、教育機関など非営利の分野でtonariをどう使っていくべきかを実証する実験などは、日本財団からの助成金を受ける一般社団法人が担当。tonariでは、2つの法人を両輪として「より大きくインパクトのある事業を育てていく」としている。

「私たちは、ある場所と別の場所にいる多くの人やコミュニティがつながることができる世界を、非常に低遅延のシステムで実現しようとしています。移動をせずに、人々がよりつながった状態を維持できるようにすることは、地球温暖化など、我々世代の大きな課題に向き合うことでもあります。テクノロジーの力で、離れていても“対面”で“空間を共有”すること、社会がつながったままになることをtonariでは目指しています」(キャンベル氏)

ゆくゆくは孫と祖父母のコミュニケーションに使えるような製品に

株式会社が立ち上がったことで、事業をスケールする基盤も得たtonariでは、2019年に複数のエンジェル投資家からの資金調達を実施。また直近のシードラウンドではOne Capitalをリード投資家として、Mistletoe Japan、リバネスキャピタル、ABBALabからも投資を受け、エンジェル・シードラウンドの合計で3.4億円の資金調達を完了した。調達資金については、今後の研究開発とマーケットの拡大に充てるという。

2020年1月からは実証実験として、実際の企業での利用が始まっているtonari。業務上のコミュニケーションのみならず、大阪と東京でスタッフが一緒にランチを楽しむなど「価値を感じてもらえた」という。

現状の製品はフルカスタムの第1世代で「Teslaでいえば、ハイスペックな初期プロトタイプのスポーツカーとして開発されたRoadsterのようなもの」とのこと。ハードウェアとシステムだけでなく、設置する壁面のデザインも含めて、組織になじむように空間設計を行い、使いこなすためのファシリテーションプログラムなどの人のサポートもフルサービスで提供している。

費用はハードウェアの実費と設置・導入のためのコスト、そしてSaaSとしてのランニングコストで、フルカスタム版の現行製品は当然ある程度の金額になる。ただ、大企業の役員会議室で利用されるようなビデオ会議システムではハードウェアだけでも数千万円かかり、会議室の設営からシステム導入まで含めれば1億円ぐらいになることを考えれば、“リーズナブルな”価格帯での提供となるそうだ。

また、現在は空間を会社・チームに合わせてデザインし、2拠点に2人のファシリテーターを派遣するなど、カスタマイズの要素が大きいことから費用が高額になっているが、ゆくゆくは「設置が簡単にできるようにパッケージ化することでコストダウンする予定」と川口氏。さらに、tonariのスペックを満たすハードウェアの価格が、ちょうど指数関数的に下がるタイミングでもある、と説明する。

「7000ルーメンのプロジェクターでも、もう数年すれば同じスペックでコンシューマー価格帯の数十万円レベルになるはずです」(川口氏)

川口氏は「パッケージを開けて壁面に置けば、すぐに動くようなところまで実現できれば」と語る。自宅と実家をつなげておいて、子どもが帰宅したら祖父母が「おかえり」と出迎えるようなシチュエーションを実現したいという。

プロダクト進化への期待と同時に、“空間をつなぐ”ことへの需要自体も今年は大きく変化した。顔を合わせての遠隔コミュニケーションは特別なものではなくなってきている。コロナ禍以前から、東京への通勤者の半数以上は1日往復2時間かけて通勤し、収入の3割を家賃に使っていたし、女性の65%が出産を機に仕事を辞めている状況もあった。

新型コロナウイルスの影響で、2月には導入率26%だったリモートワークが、6月には7割の企業が導入するようになっている。一方で「今のツールでは遠隔コミュニケーションが困難だ」と初めて知った人も増えているだろう。

ポストコロナ時代、オフィスの規模縮小を図る企業や、郊外へ移動した人も現れている。tonariでは、従業員がつながった状態で仕事ができることや出張が不要になること、複数拠点を抱える企業で拠点ごとに管理職を置かなくてもよくなること、採用やトレーニングが遠隔で行えることなど、プロダクトの導入によるバリューは十分に見いだせると考えている。

キャンベル氏は「来年後半には20〜30社ぐらいの顧客にプロダクトを提供したい」と話している。地方と東京の離れた地点にオフィスを構える企業や大学などから、既に問い合わせもあるそうだ。テクノロジーやデザイン、製造業などの大手企業をターゲットに、初めは口コミで裾野を広げていく考えだ。

「tonariのカバー範囲は『どこでも、人々をつなぐこと』。だからマーケットは巨大です」(キャンベル氏)