
- アップルの中枢を知る男
- アップルとパナソニックの違い
- 思いついたものをかたっぱしから作る社風
- スティーブ・ジョブズと幹部たち
- 長く使われ続けるプロダクトをイチから作りたい
- 1台36万円のコーヒーグラインダー100台が1週間で完売
- ダグラスが考える「アップル流の哲学」
アップルの中枢を知る男
「この職場に来るのが、毎日楽しみなんですよ。大好きなんです、ここが」
ほとんど日本人と変わらない流ちょうな日本語で、ダグラス・ウェバーは言った。そこは福岡県糸島市の海沿いにある彼のオフィスで、時折、外から「コケコッコー」とにぎやかな鳴き声がする。ミニサッカーができそうな広々とした敷地のなかで、鶏が放し飼いされているのだ。
2年前に空き工場を買い取り、DIYしたというダイニングスペースは、サンフランシスコやニューヨークにあるリノベーションカフェのように洗練されている。一方、併設する工房には使い込まれた様子のさまざまな工作機械が置かれている。いわゆる、モノづくりの現場だ。

オフィスから裏山に入ると、徒歩2、3分で海に出る。オフィスからの道のほかにアクセスする方法がなく、一般の人は立ち入ることができないので、砂浜にはごみひとつなく、海水は透き通っている。暑い日はここで、家族や友人とともに海水浴を楽しむ。
ダグラスが糸島で「Weber Workshops」を立ち上げたのは、2014年。「無類のコーヒー好き」が高じて、コーヒー豆を挽くミルやカフェで使用される専門的な器具を開発してきた。ダグラスが生み出すプロダクトは、従来にない発想で課題を解決する機能を持つだけでなく、シンプルかつ繊細なデザインで機能美を感じさせる。それが世界で高く評価されて、世界各国から注文が入る。

ダグラスの美学は、2002年から12年間働いたアップルで培われた。彼はメガヒットした「iPod nano」の第1世代とその後継機のリードメカニカルエンジニアであり、「iPhone」にも、その名前がつく前から開発に携わっていた。
2007年には、「日本で埋もれている技術を発掘してアップル製品の開発に役立てる」というダグラスの提案からアップル社内に「ジャパンプロダクトデザインチーム」が結成され、コアメンバーとして東京に移住。iPhoneに採用されている耐指紋性撥油コーティング(指の皮脂が付着しにくい構造)は、ダグラスのチームと日本企業が協力して技術開発と実装を担当したものだ。
彼の上司は、2017年までプロダクトデザイン部門の副社長を務めたスティーブ・ザデスキィで、元CDO(最高デザイン責任者)のジョナサン・アイブとも密に連携してきた。あのスティーブ・ジョブズとも、何度も言葉を交わしたという。
アップルのものづくりの中枢を知り、日本の事情にも精通するダグラスに、「日本からイノベーションが生まれないのはなぜだと思いますか?」と尋ねたら、「その理由はハッキリしていますよ」と答えた。その回答を記す前に、今年8月、アメリカの企業として初めて時価総額2兆ドル(約211兆円)を突破したアップルという企業と、ダグラスとの関わりから振り返ろう。
アップルとパナソニックの違い
ロサンゼルス出身のダグラスは、10歳頃から自宅にあったアップルのホームコンピューター「Apple IIe」で遊んでいた。当時を振り返り、「あの頃から、ギークなことやりよったな」と博多弁で苦笑する。
達者な日本語は、子どもの頃、日本人の「田中君」と仲良くなったのがきっかけ。親友の家で毎日のようにミニ四駆やファミコンで遊んでいたら、田中君の母親から「毎日来るんだったら日本語も覚えて」と言われて、日本語を学ぶようになった。スタンフォード大学時代の専攻は機械工学で、副専攻が日本語。在学中、京都大学と九州大学にそれぞれ1年間、留学している。
ダグラスは京都大学留学中にパナソニックで、その後、スタンフォード大学に戻った後に、アップルで、それぞれ3、4カ月のインターンを経験した。当時、パナソニックでは世界最小レベルのMDプレイヤーを作っていて、アップルはと言えば、1998年のiMacの発表で一時期話題をさらったものの、再び業績が低迷し始めている時期だった。それでも、ダグラスは「両社を天秤にかけると、アップルの方が断然面白かった」と振り返る。
「まだ初期のiMacが発売されたばかりの頃で、プロダクトデザイン部に入ってiMacの開発にちょっとだけ携わりました。アップルには加工室があって、自分たちですべての商品の試作品を作るんだけど、インターンでもアイデアがあれば、特に許可も必要なく、試作品を作れるんですよ。しかも、パソコンで設計したものを加工室の人が削り出してくれる。それって学生にとってはすごく贅沢じゃないですか。ここなら躊躇(ちゅうちょ)しないでいろんなものを作れるし、楽しいなって。パナソニックはそういう雰囲気じゃなかったし、実力主義より年功序列っていうのがはっきり見えたからね。自分は年齢や性別問わず、実力ある人が上にいくべきだっていうマインドだけど、日本の企業は今も違うでしょ」

インターンを終えたタイミングでアップルから就職のオファーが届いたが、ダグラスはそのオファーを蹴って、九州大学に留学した。中学生の時から陶芸をしていて、「焼き物が有名な九州に行きたい」という思いが勝ったそうだ。
博多ではいい出会いに恵まれて、糸島の山奥に陶芸の窯を持っている人から「自由に窯を使っていい」と許可をもらい、1年間その窯で作陶に没頭した。この時の縁で、今、糸島に拠点を構えている。
帰国すると再びアップルからオファーが届き、しかも1年前より提示される給料が上がっていた。ダグラスは「九州で陶芸しながら遊びほうけてたら、給料が上がるのか!」と驚きつつ、インターン時の好印象もあって入社を決めた。
思いついたものをかたっぱしから作る社風
2002年12月に入社すると、「iPod」の開発チームに配属された。最初の頃は、iPodの第2世代やiPod mini(2004年発売)の内部機構の一部、付属するアクセサリーなどを作っていた。その後、「iPod nano」のリードメカニカルエンジニアに抜擢された。
アップルでは、新商品の開発は少数のチームで行われる。ダグラスのチームも、電子系の技術者、インダストリアルデザイナー、ソフトウェアの担当者、プロジェクトマネージャー(PM)のおよそ5人だった。
iPod nano は、2005年9月7日に発売後、17日間で100万台以上を出荷するなど爆発的に売れ、ダグラスの記憶によれば、世界の家電史上初めて1日の生産台数が10万台を超えた製品だ。しかし、ここで注目すべきは売り上げよりも、iPod nanoのリードメカニカルエンジニアだったダグラスが、25、26歳だったことだろう。日本企業ではあり得ない若さで、これが実力主義だ。
ダグラスは、携帯電話に革命を起こした初代iPhoneの開発にも関わっていた。そのプロジェクトは、発売の3年ほど前からスタートしていた。
「2004年頃から、みんな携帯のことばっかり考えていたんですよ。世界中のいろんな面白い携帯を買ってきて、使ったり分解したりしていました。だいぶ早い段階で課題になっていたのが、アンテナ。ジョブズが最初から、『引っ張って出すアンテナはダサいから絶対つけない』と決めていたからね。アンテナをつけるといろいろな問題がクリアになったんだけど、アンテナは許せないというから、アンテナの専門家をたくさん雇って内製化しました」
2007年に発売された初代iPhoneより前に、いくつもの試作品が作られた。そのなかからたったひとつ、世に送り出すものを選ぶのが、ジョブズだった。
「アップルのすごいところは、なにかのアイデアがあったら、『じゃあ作ってみたら?』と言われるんです。誰かの許可が必要というレベルでもなく、とにかくやればいいんだという感じ。開発費用でケチられることはまずなくて、思いついたものをかたっぱしから作っていく。どんなアイデアも、実際にそれを動かしてみないとどれだけ良いアイデアかわからないじゃないですか。そのうえで、実際に世に出る製品はアイデアの1%。その1%を選び出すのが、ジョブズの役割でした」

スティーブ・ジョブズと幹部たち
結果的に、ジョブズが選び出す「1%」はどれも大きな注目を浴び、売り上げを伸ばした。その比類なき直感力は、圧倒的な経験によって培われたものだとダグラスは指摘する。
「社内ではたくさんのプロジェクトが動いています。その方向性が間違っていればジョブズも責任を問われるし、時間の無駄だし、とにかく結果を残したい人だから、開発の途中で必ず方向性と出来栄えをチェックしていました。技術的な細かいことも理解していたし、いろいろな経験を積んだからこそ磨かれたセンスを感じましたね」
「技術的な細かいこと」を把握しているのは、アップルの上層部も同様だ。プロダクトデザイン部門の副社長を務めたスティーブ・ザデスキィも、元最高デザイン責任者のジョナサン・アイブも現場レベルの話をすることができたし、課題があればスタッフと議論し、助言をくれたという。
「スティーブは僕より10歳ぐらい年上で、僕より経験を積んでいたし、モノの見方とか価値観もすごく共感することが多かったから、一緒に仕事をしていて楽しかった。いつもエンジニアのために戦ってくれる人で、彼の存在があったから、社内でエンジニアが上位にいられたと思う。ジョニー(ジョナサン・アイブ)もめちゃくちゃナイスガイで、大好きだったんですよ。彼は材質や色を選んで見てくれを決めるインダストリアルデザイナーだったけど、エンジニアの僕らが担当するメカニカルデザインもできる人で、彼のチームもみんなそうだったから、シームレスに機構とデザインが成り立つ会社になったんだと思う」
前述したように、初代iPhoneが出た2007年、ダグラスの提案によって「ジャパンプロダクトデザインチーム」ができた。なぜ商品開発の最前線から、日本に行こうと考えたのか? 理由は2つあった。ダグラスはもともと日本びいきで、アップルでもできるだけ日本製の部品を使おうとしてきたが、「日本に行けば、日本のモノづくりのいいところを取り入れて、もっと面白いことができるんじゃないか」という予感があった。
もうひとつの理由は、疲労だった。当時、アップルは1年に一度のペースで目玉商品を出していて、そのスケジュールは現場レベルでは「超ハード」だった。ダグラスは会社から車で5分ほどの所に住んでいたが、深夜まで働いて、帰宅して仮眠し、すぐ会社に戻るという生活が続いていた。会社に泊まり込む日も多く、働きすぎて腰を痛めて手術もした。そのうちに「体力的にきつくなって、このサイクルから脱線したくなった」という。ただ、仕事は好きだったので、退職や転職ではなく、「違う路線で貢献しよう」と思っての提案だった。
「日本で埋もれている技術を発掘してアップル製品の開発に役立てる」というミッションを掲げるジャパンプロダクトデザインチームの実現を後押ししてくれたのは、よき理解者のスティーブ・ザデスキィとジョナサン・アイブだった。
長く使われ続けるプロダクトをイチから作りたい
東京にオフィスを開いた時点では、具体的なことはなにも決まっていなかった。最初の頃は、中小企業庁が出している「元気なモノ作り中小企業300社」などを読んで、ユニークな技術を持つ中小企業に電話やメールをして、イチから関係づくりを始めた。そのなかから、耐指紋性撥油コーティングのような「これは!」という技術を見出し、本社につなげていった。
その貢献度の高さは、わずか2年でジャパンプロダクトデザインチームがアジアプロダクトデザインチームに拡大したことからもうかがえる。九州大学時代にほれ込んだ福岡にもアパートを借りたダグラスは、チームの中核として東京と福岡、アジアの都市を飛び回っていた。
2014年にアップルを離れたのは、以前から抱いていた「ほかの分野でもチャレンジしたい」という想いが大きくなったからだ。
「どんどん大企業になって、ひとつのものを決めるのにかかわる人数が増え、会議も多くなりました。責任もいろいろ細分化されていて、ひとりが担当できる範囲がものすごく狭くなった。それまで、ほかのこともやってみたいという想いもあったから今度は自分が欲しいものを作ろうと思って」
コーヒー好きが高じて、アップルで働きながら、コーヒーのグラインダーやエスプレッソマシンを買っては分解し、家で使うマシンとカフェで使うマシンの性能の違いを検証していたというダグラス。その過程で、世の中にある多くのコーヒーのマシンの中身がだいたい50年前のイタリアにあった技術を使っていると気づく。そこで、「作る工程を変えて、ニーズにあった商品、新しい機能を持った商品、長く使われ続けるかっこいいプロダクトをイチから作りたい」という想いが募り、起業を決めた。
その拠点として糸島を選んだのは、単なる愛着があるからではない。アジアデザインチーム時代の経験が活かされているのだ。
「モノづくりを考えると、工場へのアクセスも大事です。僕が設計するものは日本で作ると割に合わないし、そもそも作れる業者がない。その技術がいま台湾に集まっているんですが、福岡だと台北と東京って同じ距離なんですよ。ここだったら、30、40分で博多に出られるから、午前中に家を出れば昼前には台北の工場に着く。このアクセスの良さは大きなメリットですね」
1台36万円のコーヒーグラインダー100台が1週間で完売
最初に開発したのは、手動と電動のグラインダー。台湾の航空宇宙機器の部品を製造する工場に切削加工を依頼したという、高性能のデジタル顕微鏡のようなフォルムをした電動グラインダーは、革新的な機能を備えている。
「普通のグラインダーは工具を使って解体しなきゃいけないから、時間もかかるし面倒で、ほとんど誰も掃除していない。だから、何カ月前か何年前かに挽いた豆が付着して、酸化して嫌な臭いがする」
ここに着目したダグラスは、工具なしでカバーを外すことができ、ブラシをかけるだけで清掃できるように、主要部分をネジではなく強力な磁気によって接合した。
さらに、ダイアル式の目盛りによってミクロン単位でコーヒーの挽き目を制御できるようにしたり、豆が熱の影響を受けないように、普通は下部にあるモーターを上につけた。この電動グラインダーをオンラインショップで100台限定で発売したところ、1台36万円という高価格にもかかわらず、1週間で完売した。
この反応を見て、ダグラスは市場の存在を確信した。その後、グラインダー以外にも、ニッチながらもニーズをとらえる商品を次々に開発し、それがスマッシュヒットを飛ばしている。
Weber Workshopsの社員は3人。そのうち2人はアップルの元プロジェクトマネージャーとiPhoneの組み立てを担う台湾企業フォックスコンから引き抜いた台湾人だ。
「ふたりとも、すごく優秀ですよ。給料は前職と同程度かもっと多く出しているし、ふたりとも自分の国で楽しい仕事ができるから、Win-Winの関係だよね。日本でも、僕のサポートをしてくれる人を探しているところです。ニッチなものを作る会社だから大きな企業にするつもりはなくて、少数精鋭でやっていきたい」
ダグラスが考える「アップル流の哲学」

アップルを辞め、独立してから6年。「アップルがイノベーティブな企業であり続けられる理由はなんだと思いますか?」と問うと、ダグラスは「んー」と一瞬考えた後、こう答えた。
「アップルが作るものがなぜヒットしたかと言うと、センスのいい人たちが自分のセンスを信頼してものごとを決めたからだと思うんです。『誰かにアンケートをとってこういう結果が出た』とかじゃなくて、誰に対してこびることもなく、世の中にない、自分がほしいものを作ってきたから」
この話の流れで、「日本からイノベーションが生まれないのはなぜだと思いますか?」と質問した。その答えは、しごく明快だった。
「その理由はハッキリしていますよ。日本のメーカーに勢いがあった時代って、エンジニアがトップに立っていたじゃないですか。ホンダもソニーもそうでしょう。僕は、そうじゃないメーカーってひとつも知らない。でも企業が大きくなって、営業とかマーケティングの人がトップになってから、面白くなくなった。今は営業マンのほうがエンジニアより給料が高かったりするでしょう。泣けるよね。少なくとも、アップルはそうじゃなかった」
しばしば、日本企業の人間がダグラスのオフィスを訪ねてきて、「イノベーションってどうやって起こすんですか?」と質問するそうだ。そのたびに、「正しくないかもしれないけど」と前置きして、このようなことを話すという。日本企業の人たちがダグラスの言葉をどのように捉えているのかはかわからないが、彼は今も、アップル流の哲学を信じてモノづくりをしている。しかも、自分のライフスタイルにカスタマイズする形で進化させながら。
例えば、ダグラスは「『自分はセンスがいい』って勘違いしたものを作ったら、アウトです」という。自分のセンスを信じる。でも、過信してはいけない。この微妙なバランスをどうとっているのだろうか?
「信頼できる10人ぐらいの仲間から、率直な意見をもらっています。そのなかには妻もいるし、ジョナサン・アイブのチームにいた元アップルのプロダクトデザイナーや、ワールドバリスタチャンピオンもいます。自分が脱線していないか、いいものを作っているか、彼らの視点でチェックしてほしいんです。ただし、その輪を広げすぎるといろいろな意見が出てきて混乱しちゃうから、本当に信頼できる人だけでチームを作って、フィードバックをもらうのが大切です」
このチームは、アップル時代にあって今はない「環境」の補完でもある。アップルでは、オフィスに行けば各分野のプロフェッショナルがいて、すぐにアイデアを共有したり、相談したりできる環境があった。経営者になり、糸島のオフィスに自分ひとりしかいない今は、仲間たちがダグラスの背中を押し、支える役割を担っているのだ。
現在のダグラスにとってもうひとつ欠かせないのが、アップルに時代になかった「環境」だ。
「ここで集中して設計の仕事をしながら、自分の家で食べるパンを焼いたり、気が向いたらビーチに行ってサーフィンしたり、友だちを呼んでバーベキューしたり、そういうスタイルで仕事をできるのは最高でしょう。子どもが保育園に行っているから、いつもここを午後5時過ぎには出て、迎えに行っています。こういう環境が自分のイマジネーションにとってもすごく大切だと思っているし、ここで仕事をすることにぜんぜん飽きない。僕はオフィスで仲間たちと働くことも嫌いじゃないけど、今のほうがアップルの時よりもサスティナブルだよね」
取材の日、ダグラスが自分の電動ミルで豆を挽き、コーヒーを淹れてくれた。さらに、いつも家族用に作っているという焼きたてのパンも食べさせてもらった。パンとコーヒーの豊かな香りと味を楽しみながら、僕はダグラスの生き方、働き方に、未来と可能性を感じていた。
アップルの元エンジニアが、糸島という日本の地方で暮らし、自然豊かな生活を楽しみながら、台湾人とタッグを組んで、コーヒーというグローバル市場でイノベーションを起こそうとしている。コロナ禍で仕事に関しても既存の価値観が揺らいでいる今、日本のこれからを考えるうえで、そこになにか大きなヒントが隠されているのではないだろうか。
