「OVERCOAT」のブランドイメージ
「OVERCOAT」のブランドイメージ すべての画像提供:大丸製作所2
  • “身ひとつ”でニューヨークのファッションシーンへ
  • パタンナーだからこそつくれる「あらゆる人にフィットする服」
  • 日本にもまだファッションへの熱量が残っている

ファッションはしばしば“鎧”にたとえられる。ここぞという場面で、何を着るか。そこにはある種の意志が込められている。たとえば、ミシェル・オバマが2013年の大統領就任式で選んだのはシックなコートドレスだった。Aラインの美しいシルエット、メンズコレクション用に作られたオリジナルのシルクジャガードで構築的に仕立てられたその服は、それまでの慣例に従ってアメリカ国立公文書館に収蔵されている。

他でもないそのドレスこそ、ニューヨークを拠点に活動するパタンナー、大丸隆平が手がけた服だ。「パタンナー」は一般的に、ファッションデザイナーが描いたラフスケッチやデザイン図をもとにパターン(型紙)を起こし、サンプルとなる服を製作する。だが大丸は、まだデザインにすらなっていない、アイデアの種のようなものから服を構築し、形にする。

「『こういうのが作りたい』というイメージの断片でも写真でも、なんなら花とかでもいい。会話の中からイメージを引き出して、そこからインスピレーションを受けて、1週間くらいで骨子となるものを作る。もしデザイナーがそれを気にいれば、そのブランドの服になるんです」(大丸氏)

パタンナーの大丸隆平氏
パタンナーの大丸隆平氏

アメリカ次期副大統領のカマラ・ハリスが8月の党大会の際に着ていたテーラードスーツも、実は大丸が手がけたものだ。

「自立した女性って、美しいなと思うんです。だから曲線的なシルエットが出るようなつくりにした。直接採寸することはできなかったので、教えてもらったスペックをもとに、あとは経験と勘でフィットするように考えました」(大丸氏)

そのほか、アレキサンダー・ワンやジェイソン・ウーなど世界的に活躍するファッション・デザイナーの服作りを、大丸と自身が経営するパターンメーカー「大丸製作所2」が支えている。その数、12年間で延べ2万着。ニューヨークのファッションシーンは、彼なしでは成り立たないと言っても過言ではない。そんな大丸が2015年に立ち上げたブランド「OVERCOAT」がオンラインで商品の販売を開始した。なぜ、彼はD2Cでコートの販売を始めたのか。大丸のキャリアを紐解きながら、彼の考えを聞いた。

“身ひとつ”でニューヨークのファッションシーンへ

チャイナタウンとして知られるカナル・ストリートの一角にアトリエを構える大丸製作所2は、大丸のほか、7名の職人たちが服づくりに携わっている。その全員が日本人だ。

「日本企業と取引していると、技術力は高いのに、未だにファックスでやり取りしていたり、ごく少人数で零細経営していたりする。このままでは世界に通用しないんじゃないか、って危機感を覚えて。いまは『大量生産で大きく儲けた人が正しい』みたいな世の中だけど、ちゃんと技術力を持った人や本質的なものづくりをしようとしている日本人が活躍できる場をつくって、自分もそれに貢献できたらと思って会社を立ち上げたんです」(大丸氏)

大丸自身は福岡で生まれ育ち、16歳から独学で服づくりを始めた。実家は祖父の代から続く家具メーカーで、幼い頃から職人たちのものづくりを間近で見ていたという。

「長男だから継がなきゃいけなかったんですけど、父とは違うことをやってみたくなって。『固い木を使うんじゃなくて、やわらかい布で何かつくってみよう』みたいな。自分としては真逆のことをはじめたつもりだったんです」(大丸氏)

昔の作業風景
昔の作業風景

文化服装学院卒業後、日本のトップメゾンでパタンナーとして6年ほど勤務した後、フリーランスとしてキャリアを積んでいた大丸に、DELL創業者のマイケル・デルの妻、スーザン・デルからオファーが届く。新たにファッションブランドを立ち上げるにあたり、スーパーバイザーとして参画してほしいという依頼だった。

「ビザもすべて用意するから、身ひとつで来てくれないか、と。僕って割と小心者で、度胸がないんですよ。そのオファーも怖くてしかたなかった。でもコンプレックスを克服するために、あえて怖いことに飛び込んでみようと思ったんです」(大丸氏)

だが、いざフタを開けてみれば、同時多発テロ以降の移民政策によりビザの申請手続きが厳格化された影響で、企業の担当弁護士は大丸のビザを取得することができなかった。それが判明した途端、大丸は創業者サイドと一切の連絡を断たれ、「身ひとつ」でニューヨークに取り残されることとなったという。

「東京の家も引き払っていましたし、福岡に帰ってもどうしようもない。当時は2006年でまだiPhoneすらなかった頃でしたが、ネットでググって、ルームメイトを募集している人たちを見つけて、マンハッタンの“奥地”で暮らしはじめたんです」(大丸氏)

日本に戻らず、アメリカに残る決断をしたものの、まったくあてはない。英語もままならない大丸を見かねたルームメイトのひとりは、大丸が服づくりに長けていることを知り、こんな助け舟を出した。「友人の友人がFIT(ニューヨーク州立ファッション工科大学)を卒業してデザイナーを目指しているんだけど、彼女に服をつくってみたらどう?」こうして大丸は語学学校に通うかたわら、デザイナーたちの依頼で洋服をつくるようになった。

「むさくるしい部屋で暮らしているヤツが、まさかちゃんとした服をつくれるとは思っていなかったんでしょうね。はじめに服をつくった子にはものすごく驚かれて。『すごい、私の友達にもつくって欲しい』って、どんどん周りを紹介してくれて……15年近く経ったいまでも、その延長線上で仕事をしている感じなんです」(大丸氏)

先述のアレキサンダー・ワンやジェイソン・ウー、トム・ブラウンといったファッションデザイナーらも、まだ何者でもない時期に出会ったという。

「彼らもまだ家のキッチンで作業しているような頃で、お互いに『こいつ、大丈夫かな』って思いながら仕事していたと思うんですけど(笑)、どんどん有名になっていって、僕の名前もおのずと広がっていった。僕のつくった洋服のおかげで、とは言わないけど、彼らのPR力や資金力もあってブランドが売れていったのは、僕にとってとてもラッキーだったと思います」(大丸氏)

パタンナーだからこそつくれる「あらゆる人にフィットする服」

LVMHグループ傘下のブランドでパタンナーを務めた後、2008年に自身の会社「大丸製作所2」を立ち上げてからは、コンサルティングからパターン作製、サンプル縫製を行い、量産工程へと受け渡せる稀有な存在として、名だたるブランドとともに数々の服を生み出してきた。オープニングセレモニー、ヒューゴ・ボス、ヘルムート・ラング、セオリー……。取引先や顧客リストを一目見れば、錚々たる顔ぶれだ。最近では、ラッパーのトラヴィス・スコットがアウトフィットをオーダーしたという。

「自分でも不思議なのは、僕は16歳の頃に『服をつくりたい』と思って、貝島正高さんの『紳士服裁断裁縫の要点』という本を買って、その通りに服をつくってみて、自分で着る……というのをずっとやってきたんです。それが当たり前なんだと思ってニューヨークに来てみたら、川上から川下まで全部自分でやる、みたいな存在が本当にいなかった。パタンナーや縫製する人って、ものすごく重要なはずなのに、って」

「でも縫製する人には『縫製行員』みたいな肩書きしかなくて、それじゃ18歳の子が『服をつくる人になりたい』と憧れられるわけもない。未だにファックスを使ってる職人たちだって、実はサヴィル・ロウ(オーダーメイドの高級紳士服店が集まるロンドンの通り)や“メイドインイタリー”よりはるか上のすさまじい技術を持っているんです。良い種はまだまだファッション業界にはあるはずなんですよね。それをしっかり拾いあげて、真っ当にスケールさせていくことが、日本の技術のサステナビリティにつながっていくと思うんです」(大丸氏)

そんな日本の職人たちの技術を生かし、ビジネスとして成長させていくため2015年に立ち上げたのが「OVERCOAT」だ。それまでさまざまなコレクションブランドに携わってきた彼が着目したのは、「コート」。その多くが1サイズ展開で、メンズ・レディースのカテゴリ分けも存在しない。膨大なアイテム数でルックスを提案する数多のブランドとは真逆の、ミニマムな構成だ。

「毎日採寸していると、本当に人それぞれ、肩の傾斜や厚み、体型……何から何まで違う。プレタポルテ(既製服)でS・M・Lの3サイズにあらゆる人を押し込めるのは、無理な話なんです。いかに万人にフィットするようなオートクチュール感を味わってもらえるか。最小限のプロダクツの中でそれを表現して、国籍や年齢、性別を超えて、お客様になじむものをつくるのが、パタンナーの腕の見せどころでもある。だからあえて、OVERCOATでは制約をかけた服づくりをしているんです」(大丸氏)

多くのユニセックスブランドは、ゆったりしたオーバーサイズのシルエットによって「男女兼用で着られる」ことを謳うが、一人ひとり異なる肩の傾斜にフィットするように立体的に構築されたOVERCOATのコートは、着る人によってそのシルエットさえ変わる。袖をたくし上げ、ベルトでウエストをマーキングすれば、その人しかできない着こなしとなる。

OVERCOATのルックイメージ
OVERCOATのルックイメージ

また、製作工程で生じる型紙や余剰生地、サンプルは最小限に抑えられ、型数を絞ることで生産から販売に至るまでに発生するロスを減らしている。シーズンごとに新たな流行を生み出すハイファッションや、大量生産大量消費型のファストファッションとは真逆の、サスティナブルなものづくりはある種、既存ファッションのアンチテーゼにもなっている。

「料理人もそういうところがある気がするんです。食材をつくる農家の人を知っているからこそ、素材を最大限生かして、余すところなく調理する。僕らもそうなんです。パタンナーとして、生地やパーツをつくる人の仕事を無駄にしてはいけないと思う。だから全部きちんと使って服をつくりあげたいんです」(大丸氏)

日本にもまだファッションへの熱量が残っている

その真摯なものづくりはいま、静かな熱狂を生み出している。コロナ禍の影響でニューヨークがロックダウンし、パリで予定されていた展示会もキャンセルになったことで、東京のみで開催となった2020年8月の受注会。招待客のみの案内ながら、連日人づてにさまざまな顧客が訪れ、1週間で1000万円以上を売り上げた。

「38度の炎天下で、新型コロナの第2波も懸念されていて、最寄駅から徒歩11分の西麻布のギャラリーでプレオーダーしかなくて……売れる要素なんて1つもない。それでも卸の半年の売上をはるかに上回った。皆さん、おっしゃるんですよ。『ブランドはどこも似たようなデザインばかりで、何を買えばいいか分からなかった。自分らしいものが欲しかった』って。こんなときだからこそ、大量生産の枠組みにハマらないものづくりに価値を感じてもらえた。この種をしっかりと伸ばしていきたいんです」(大丸氏)

コロナ禍において、老舗アパレルの倒産や著名ブランドのクローズなどいくつもの暗い話題が続いた。それでもなお、日本にはファッションへの熱量がまだ残っていると大丸は言う。

大丸製作所2はD2Cを強化すべく、公式オンラインストアを今年11月末にオープン。12月初旬には東京・六本木でのポップアップショップを開催し、盛況を博した。今後、VCからの資金調達も予定しており、この勢いを加速させていく。

「ニューヨークで成功しているブランドを見ていると、立ち上げ段階から投資家を探して、経営陣とデザインチームが独立していて、3本柱でやっていくのが当たり前なんです。『デザイナーがゴールドマンサックス出身の人とブランドを立ち上げた』みたいなのがザラにある。良い服づくりをしていれば自然と売れる……なんてことはほとんどなくて、やっぱりコネクションや政治力がモノを言う世界でもある」

「そういう意味では、僕らは幸い、なんとか自分たちでシードをつくることはできたけど、これからビジネスを含めてさまざまなプロフェッショナルとともに関わって、成長していくステージにさしかかってきたのかなと考えています」(大丸氏)

2020年はニューヨークをはじめ、東京、パリなど多くのコレクションがデジタル開催へと移行し、アパレル企業はECのさらなる強化を余儀なくされた。商流そのものに変化が訪れるなかで、大丸はこれからのファッションをどう捉えているのだろうか。

「そうは言っても、マス向けのファッションはこれからもあり続けるんだと思います。『マクドナルド』と『京都の料亭』がコンペティターにならないように、僕らは僕らで信じるものづくりをやっていく。ただ、『いいもの』が何なのかはまだ定かではなくて……少なくともそれはネットで評価が高いものじゃなくて、もっと身近なコミュニティの誰かが『これ良かったよ』って言っているものだと思うんです」

「親しい人が『着心地が良かった』とか『これ着てたらよく声かけられるんだよね』とか、そういう身近な情報のほうを信じている。それがまさにこないだの受注会で起こったことだったんです。それぞれ別の友達を連れて3回来てくれた人もいたんですよ(笑)。情報が溢れている分、精査するのに困って、『何を買ったらいいか分からない』なんてことになる。だからこそ、身近な人が勧めるものを着たいと思うんだろうし、僕らつくり手は、そういうお客様と会話することで、新たなインスピレーションを受ける。そうやってコミュニティがどんどん小さくなっていくんだと思います」(大丸氏)