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  • 国を挙げて「スペシャル博士」を育成する
  • 企業を「知りながら学べる」実践型教育
  • 「卓越大学院」で見つけた新しい道
  • 産学連携を成功へ導く「架け橋人材」育成に

日本の大学院を改革するために、文部科学省が推進する5年一貫の博士課程学位プログラム「卓越大学院」が始動している。博士課程を修了しても職に就けずに貧困に悩む研究者や、専門性に特化しすぎて俯瞰した知識を持つことができずビジネスに活用できない研究者が後を絶たない。こうした大学院の構造を変え、教育の力でイノベーターを育てることはできるのか。東北大学の卓越大学院『人工知能エレクトロニクス(AIE)』に話を聞いた。(ダイヤモンド編集部 塙 花梨)

 日本における大学院進学者の割合は、主要国(米国、ドイツ、英国、フランス、韓国)と比較して非常に少ない。人口100万人あたりで比較すると、修士課程取得者の数は他国平均の3分の1、博士課程取得者は他国平均の2分の1に満たないのだ(文部科学省「国内外の大学院に係る情勢」より)。

 この原因は、日本の大学院の“構造”にある。博士号まで取得しても、大学で正規のポストに就けず任期付きで研究活動を続けざるを得ない博士研究員(ポスドク)が増えており、彼らは研究をするために経済的に不安定な状況に追い込まれてしまう。

 また、研究室にこもって専攻分野を狭く深く研究していくため、社会やビジネスとの関連性を見出しにくく、学歴やスキルに見合った職に就けない。このようなケースはいまだ改善されておらず、研究を志す学生を待ち受ける不遇さは想像以上だと言える。

卓越大学院プログラムの概要 提供:AIE
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 経済面とキャリア面での不安を抱える学生たちの間では、「修士課程までにとどめておかないと就職できない」のが定説になってしまっているほどだ。

 こうした大学院教育の環境を改善し、未来の日本でイノベーションを起こす人材を発掘すべく2018年度から始まったのが、「卓越大学院プログラム」だ。文部科学省の指揮のもと、各大学が企業や機関と連携して作った5年一貫の博士課程学位プログラムである。

国を挙げて「スペシャル博士」を育成する

 初年度(2019年度)は実施校として13大学15件が採択されたが、そのひとつが東北大学で、『人工知能エレクトロニクス(AIE)』という新分野が選ばれた。

AIE卓越大学院プログラムが目指す人材像 提供:AIE
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 AIEとは、AIに関わるハードウェアとソフトウェア、また、その双方の構造化(アーキテクチャー)という3領域で構成され、1つの分野を深く研究していくだけでなく、複数の分野を横断的に学び、全体を俯瞰して見ることができ、新産業を創出できるイノベーターの育成をゴールに置いている。

 AIEエレクトロニクス教育研究センターでセンター長を務める東北大学教授・金子俊郎氏は、「卓越大学院プログラムは全員がアカデミックに残る時代ではないからこそ、必要だ」と主張する。

「博士課程まで進学すると、大学に残って研究者として生きるイメージが強いですが、最近は違う。私が担当している電子情報応物系学科でも5割の学生が、博士課程修了後に産業界へ就職しています。博士人材のキャリアパスは大学側が真剣に考えなければなりません」(金子氏)

 そのため、企業と接点を持つことのできる産学連携((新技術開発や新事業創出を目的として、大学などの教育機関・研究機関と民間企業が連携すること)教育の部分は特に力を入れている。学生からすれば、自身の研究が社会でどのように役立つのかを知りながら、実践力を身につけることができるのだ。

 また、経済的不安を取り除くために、最大月20万円の教育研究支援経費を支給している。これは、文科省からの補助金と、産学連携教育として共同研究をする企業の支援金、学内の教育支援金から捻出している。

企業を「知りながら学べる」実践型教育

 プログラムは2軸を連動させて進める形式をとっている。学問分野の研究者による講義で俯瞰力を養う「学際融合教育」と、民間企業の研究者と大学研究者が協働で実施する「産学連携教育」だ。

 学際融合教育は、AIEが強みとしている3分野「スピントロニクス」「自然言語処理」「量子アニーリング」をはじめ、博士課程修了に必要な知識を付けていくカリキュラムだ。また、4~5年次には、グローバル科目として英語での講義が中心となる。

 産学連携教育は、企業と連携して大学の中で実践的な教育を実施するカリキュラム(2020年4月より開始予定)。学習と研究の掛け合わせなので、共同研究のイメージに近く、NEC、東芝、KDDIなどの大企業が参加予定だ。

「講師陣は、実際に民間企業で活躍する研究者です。1社ごとに綿密にカリキュラムを練っていて、企業によって集中講義や週2回の講義など、形式や頻度もバラバラ。産学連携はうまくいかないことも多いと思いますが、企業とアカデミアが一緒にやっている意識を持つことで正の循環を期待しています」(金子氏)

 学生にとっては、企業のマインドを持ちながら学ぶことができる貴重な機会になる。就職志望の場合はもちろんのこと、研究者志望の場合であっても、企業の考えや社会への影響を知ることは決して無駄にならない。

「卓越大学院」で見つけた新しい道

 実際にAIEプログラムに進学している第1期生は全部で35人。参加する学生の声は明るい。

 医工学研究科博士課程1年の池田隼人氏は、就職するつもりで得た内定を断って、AIEに進学した。池田氏の所属する医工学研究科では40人中3人がAIEに進学したが、そのうち2人(池田氏を含む)が企業の就職内定を辞退したという。

「修士までだと推薦で良い企業に行けるのに、博士まで行くと就職先が見つからないと言われていたので、本当は研究したいけれど進学を諦めていたんです。でも、AIEは就職を後押ししてくれるプログラムが良かったのと、通常の博士課程だとこれまでの実績や論文が一度リセットされてしまうのですが、AIEだと研究活動を引き継いで進めることができるのも決め手になりました」(池田氏)

 池田氏は、修士課程まで超音波によるがん治療を研究したくて進学していたが、「ほかの治療法を知れないのが悩みだった」と言う。

経済面とキャリア面の支援 提供:AIE
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「一番いい治療法は何かをふかんして考えたかった。もしかしたら、超音波ではなく、人工知能やハードウェアかもしれない。企業に入ると、どうしても本質から遠ざかってしまいますが、AIEならこれまでの知識を生かしながら、本質を学べると思ったんです」(池田氏)

 また、理学研究科の修士課程1年、馬場晶子氏は次のように話す。

「私の所属する理学研究科では、企業と一緒に研究する機会がないので、実際に自分の研究が社会にどう生かせるのかがわかりませんでした。研究と社会の関係を考えずに、アカデミックな領域でやりすぎるのではなく、企業のニーズを知りながら研究もできる、“どちらもできる環境”なのが良いと思いました。出口がわかっていると、やる気が出るんです」(馬場氏)

 実際、馬場氏の周りでも、自分の研究分野以外の広がりがなく、研究のモチベーションが維持できずに、研究分野とは関係のない教職やエンジニアになる人が多いという。

「基本的に、先輩から研究を引き継いでいくスタイルなので、限られたものしかできないんです。共同研究に行くとしても先生のツテしかなくて、とても狭い世界。私はAIEに進学して、新たにAIの分野を研究しています。5年制のため、修士1年で結果だけにとらわれず伸び伸びと研究できるのもうれしいです」(馬場氏)

 AIEに進学後、ゼロベースから新たな分野を学べるように、基礎的な内容を補う講義があるという。「新しい興味と積み重ねてきた研究を交互にできるので楽しい」と馬場氏は笑う。

 現在、AIEでは2020年度の募集が始まっており、前期後期合わせて30人程度を想定している。AIEセンター長の金子氏は「継続して学生に興味をもってもらえるように常に改善し続けたい」と語る。

産学連携を成功へ導く「架け橋人材」育成に

 産学連携は、なかなかうまくいかないのが定説だ。その原因の多くは、企業のビジネス的視点と大学のアカデミックな視点がかみ合わないことにある。

 しかし、卓越大学院のカリキュラムがうまく機能すれば、ビジネスの視点を持ちつつ、深く広く新技術を理解する人材を創出することができるかもしれない。

 これまで経済面とキャリア面での不安により学びたくても学べなかった研究者たちが、伸び伸びした環境で新しい道を進める卓越大学院プログラム。教育構造を改革するこの新たな挑戦が、教育とビジネスの分断を終わらせ、新たなイノベーションを生む日は来るのか。