• ロボコン少年、高専で学生起業
  • 「音楽性の違い」から、一度社長を退く
  • 上場して、売り上げが目的化してしまった
  • 本業と「ちょっと違う」事業で債務超過に
  • 原因は「ちゃんと話をしていなかった」に尽きる
  • いまだに引きずる、“復活後”のダメージ
  • すべてにおいて重要なのは「伝える」こと

資金調達にサービスの立ち上げ、上場や事業売却と、ポジティブな側面が取り上げられがちなスタートアップだが、その実態は、失敗や苦悩の連続だ。この連載では、起業家の生々しい「失敗」、そしてそれを乗り越えた「実体験」を動画とテキストのインタビューで学んでいく。第4回はさくらインターネット代表取締役社長の田中邦裕氏の「失敗」について聞いた。(聞き手/ダイヤモンド編集部副編集長 岩本有平、動画ディレクション/ダイヤモンド編集部 久保田剛史)

 さくらインターネットの創業は1996年。当時、舞鶴高専の生徒だった田中邦裕氏が、共有レンタルサーバサービスを個人で始めたのがそのルーツだ。1999年には株式会社化して東京、大阪にそれぞれデータセンターを開設。事業を本格化した。

さくらインターネット代表取締役社長の田中邦裕氏さくらインターネット代表取締役社長の田中邦裕氏

 6年後の2005年には、東京証券取引所マザーズ市場への上場を果たす。

 そこからM&Aにより事業を多角化するが、子会社の業績不振から、一時は債務超過に陥ることになった。当時を振り返って、「伝える」ということの大切さを強く説く田中氏。その失敗の経験をひもとく。

ロボコン少年、高専で学生起業

 私は1978年、大阪の生まれです。テレビでNHKの「ロボットコンテスト(アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテスト:高専ロボコン)」を観て「将来は高専に進学をして、ロボコンに参加したい」というのが、小さな頃の小さな夢でした。

 1993年には無事、(京都府の)舞鶴工業高等専門学校に入学しました。そこから5年生まで、計4回ロボットコンテストに参加しました。ただその時期は不景気で、高専を卒業してからものづくりに進む決断をするのは、なかなか難しい時期でした。

 ちょうどその頃、インターネットが普及し始めたんです。そこで自らサーバを立てて、みんなに使ってもらっていました。そのうちに、「みんなのコンテンツを配信する」ということがだんだん面白くなってきたんです。それで勢い余って、1996年、学生のまま「さくらインターネット」を創業しました。もともと自分でサーバを運営していたんですが、学校の回線でサーバ運営をするのはなかなか厳しくなっていました。そんな背景があって、お客様からお金をいただいてのサーバ運営を始めました。

 ちょうどマイクロソフトが「Windows 95」を販売してすぐのタイミング。日本で急激にインターネットの利用が広がっていました。1998年頃になると、にわかに学生起業ブームがやってきて、そのあとにはネットバブルが始まりました。マザーズ市場ができたことも相まって、「学生が起業してインターネットの専門性を武器に上場する」ということが周囲でもたくさんあったんです。私たちもそういう環境の中で創業し、上場を目指しました。

 1999年には法人化して「さくらインターネット株式会社」を立ち上げました。その後、2005年に東証マザーズ市場に上場し、2015年には東証一部にくら替えしました。今は41歳になり、一応「エンジニア社長」と名乗ってはいますが、実際のところ経営に携わることのほうが多くなっています。

「音楽性の違い」から、一度社長を退く

 もともと私は創業から社長をやってたんですが、上場前にはエンジニアリングよりも、社内体制をどうするかといった形式的な業務が増えてきました。そうなると、もともと自分自身がやりたいと思っていたこととの乖離(かいり)を感じるようになってきました。それで、その時に一度社長を自分から辞めるという選択をしました。今から思えば「若気の至り」や「音楽性の違い」かもしれませんが、結果として会社を離れる決断をしました。当時、上場が「手段」なのか「目的」なのか分からなくなっていたところも大きかったんです。

 上場ってあくまで目標だったのですが、それを達成するために証券会社や監査法人からさまざまな指摘を受けることが多かったんです。本来ならそういう外部からの指摘と自分のやりたいことの折り合いをつけていくべきなんですが、当時は「上場するために変な犠牲を生むのは、やってられん」と。結局は筆頭株主でしたし、オーナーという立場でもあったので、副社長として経営陣に残って上場しました。

上場して、売り上げが目的化してしまった

 そんなことを言っていたのですが、いざ上場したら上場したで、シンプルに心地よくなってしまいました。当時はまだ、ライブドアショックの前でしたから株価もよかった。一夜にして億万長者になるわけで、それ自体は夢のある話です。上場が1つの目標であったのは間違いないので、それが達成されたということですごく喜んでいたのを記憶しています。勢い余ってその当時いろいろ遊びまわったりすることもありました。個人のことで言えば、大阪なら北新地、東京だったら六本木あたりにも遊びに行きました。

 あと、会社のことで言うと、買収案件が来るんですよね。そうなるとどんどん買収するわけなんですよ。ステータスのためということもあったのかもしれませんが、結局は「売り上げのためだ」と言って買収することが増えてしまいました。買収先とうまく付き合うことができるスキルもないのに、どんどんグループが広がっていってしまう。オンラインゲームも、海外事業も、ソフトハウスの買収も。動画配信も始めることになりました。

 この会社は、もともとサーバサービスが好きで、そしてインターネットが好きで創業した会社なわけです。けれども、上場して、売上が目的化してしまった。とにかく売上を上げなければならない、と。

 上場すると、経営者には大きなプレッシャーがかかります。そのプレッシャーには、大きく2つの種類があります。1つは、今よりも高い目標を掲げなければならないということ。そしてもう1つは、その高い目標を達成しないといけないということ。それらは会社を作った時には全くないものなんですが、上場すれば当然たくさんの株主からフィードバックをいただくことになります。そのプレッシャーに打ち勝つために、売り上げを上げることを目的化してしまいがちなのです。本来は自分たちのビジネス、そしてそのお客様の満足の結果としての売り上げなはずなのに。

本業と「ちょっと違う」事業で債務超過に

 当時を振り返れば、「データセンターやサーバだけをやっていては、上位のコンテンツレイヤーに行けない。そういった上位レイヤーのお客様が自分でデータセンター作り始めると、我々の商売が行き詰まってしまうのではないか」という焦りもありました。

 それが結果的に、債務超過に陥るまでになってしまいました。その引き金になったのがオンラインゲーム事業だと言われるのですが、実際のところ問題になったのは、たくさん買収した子会社たちだったんですね。それらの会社が相次いで赤字になって減損になって、オンラインゲームも減損になっていきました。

 加えて、ハウジング専用(顧客が所有するサーバを持ち込む方式)のデータセンターというのを作りました。それに対して、社内はあまり乗り気じゃなかったんですね。ハウジング専用のデータセンターというのは、不動産と同様のビジネスモデルです。なので社内では「事業として厳しいんじゃないか」という意見も挙がったんです。ですが、反対するのもめんどくさかったので、そのまま放置していました。それが結局破綻してしまったんです。

 オンラインゲームについてばかり言われがちですが、実はそれよりも、ハウジング専用のデータセンターをいつの間にか作ってしまったり、子会社がいつの間にか増えていたり——そういった本業から照らし合わせると「ちょっと違うな」ということばかりなんです。おまけにやりたい人も特にいないなっていう中でなんとなく進んでいましたし、それを止められなかった。それがやっぱり失敗の本質にあるなという風に感じています。

原因は「ちゃんと話をしていなかった」に尽きる

 その根本的な要因は経営陣が「ちゃんと話をしてなかった」ということに尽きます。

 法人で言えば、誰か1人のせいで大きな失敗をするというのは、本質的にはないはずなんです。1人が失敗しそうになったときでも、周囲と対話できる状態を作っていれば問題ないんですよ。けれども、対立を恐れてお互い何も言わない、批判しない状況になってしまうことがあります。肯定も批判もせずに無関心でいる。これが一番まずい。

 当時の経営陣には、そんな無関心が蔓延していました。私自身も何か言うのが面倒くさいし、他の人も何か言うのが面倒臭いという中でチームが対話を失っていったんです。そうなるとやっぱりおかしいなと思ってることがそのまま続いてしまったり、本来やらないといけないことをやらなかったり、そういうことが起こったんだと思います。

 最終的に債務超過に陥って、そこで社長をやっていただいていた方が辞任して、私が社長に復帰することになりました。2007年末の出来事です。

 当時、自分の株券を引き出して、株券を担保にお金を借りまくってなんとか資金を集めました。株は(不適格銘柄となり)売れないので、株を10倍とかの担保で持っていった。例えば1000万円を借りるために1億円分の株を持っていくような状況でした。年明けには双日が大株主に入ってくれたこともあり、数ヵ月で債務超過を解消しました。さらに、子会社を全て売却していき、1年半後には黒字に戻しました。

いまだに引きずる、“復活後”のダメージ

 財務面での復活は比較的早かったんです。ですが、会社のマインドの復活に関してはかなり長い時間がかかりました。今でもまだ引きずってるところもあります。

 当然ですが、会社って傾くと財布の紐を締め始めるんです。基本的に利益を出す方法は売り上げを上げるかコストを削るかのどちらかですが、当時はコストを削るという選択をしていました。不採算事業を売却して、可能な限り外注に切り替えるというような手段を使います。そうなると、今度はどんどん働きにくくなって、社員が実際に辞めていきます。一時期は約2割の社員が辞めてしまいました。

 そうなると人件費がどんどん下がるんで、結果として会社の利益は増えるんですよ。当時、私の一番の関心は「いかに利益を復活させていくか」ということ。社員が会社に不満を持っても利益は増えるので、経営者としては目標は達成されている——そんないびつな構造での復活を遂げていきました。

 ですが当然、売り上げを増やして利益を増やしたわけではないので、結果として売り上げが増えなくなっていくわけです。四半期ベースで見れば、前の四半期を割り込むことになった。社員が減り、社員の満足度も減り、売り上げの成長率も鈍化する。債務超過よりも、そのあとのダメージが大きかったんです。

 2009年から2010年をそんなふうに過ごしたのですが、これではいけないということで一念発起して立ち上げたプロジェクトが「石狩データセンター」の立ち上げでした。そして2014年頃からは社内への手当ても始めました。まず、働きやすい環境、働きがいのある環境を作ることに関心を向けるようにしました。加えて、2016年と2017年には大幅にエンジニアも増員。結果として売り上げの伸び率は非常に良くなりました。

 今では平均の残業時間も5時間程度、有休の取得も8割以上となりました。あとは働きがいをいかに高めていってチーム力を高めていくか。これができた時にようやく債務超過からの卒業になるんじゃないかなと思っています。

すべてにおいて重要なのは「伝える」こと

 最近だとスタートアップの起業家のメンターをすることが非常に増えてきました。みんないろんな課題を抱えているんですけども、一言で言うとほとんどは「話していないから起こること」なんです。

 世の中の不満の8割ほどは、「合意のない期待」。つまり、お互いが合意をしているわけではないけれども、勝手に期待をして、それが達成されないと腹を立てるということなんです。最近は「空気を読む」という言葉が多用されていますが、人によって考え方も持ってる情報も全然違うので、他の人の気持ちだとか考えていることってほとんど分からないんですね。

 なのに上司は部下に対して「言わなくてもわかるはずだ」と思ったり、逆に部下が上司に対して「どうせ言ってもわかってくれない」と思っている。つまりはしゃべる前の段階でコミュニケーションが終わってしまっているということが多い。だから、ちゃんと投げかけをしたいし、投げかけをしないといけないよということを伝えて言っています。

 すべてにおいて重要なのは「伝える」ことです。投資家に対するプレゼンテーションも、社員向けの集会も、グループ経営者同士の役員会も、やはり伝えることが少なすぎて、お互いを理解することが難しい。ほとんどの経営の問題は、お互いに伝わってないことなのに勝手に期待して、勝手に相手を批判していることから起こります。だから、常にすべての人に対して「伝える」ということを行わないといけません。

田中邦裕(たなか・くにひろ)
さくらインターネット代表取締役社長
1978年1月14日生まれ。大阪府出身。国立舞鶴高等専門学校在学中の1996年にさくらインターネットを創業し、レンタルサーバー事業を立ち上げた。学校卒業後の1998年に有限会社インフォレストを設立。翌年にさくらインターネット株式会社を創立し、代表取締役社長に就任。2005年、東証マザーズに上場。